森脇祥太

研究者紹介

森脇祥太  /教授   開発経済学

キーワード:経済発展,統計データ,実証分析

「経済発展の計量分析」

かつての日本には広大な農村があり、貧しいながらも逞しく生き抜いた多くの先達が存在しました。現在でも貧困にあえぐ多くの国々があります。江戸期以降の日本の歴史は貧困克服のための多くの貴重な教訓を「開発経済学」に与えてくれます。

日本の経済発展を、貧困を克服するための連続的な試みという視点から眺める場合、まず、最初にその試みの担い手となったのは、若い女性達でした。貧しい国々に生きる人々にとって最も重要であることの一つは現金収入を得られる「仕事」があることです。お金を稼いで暮らしを豊かにすることが貧困克服の第一歩であると考えます。

 明治維新がスタートして間もない、1870年代には、繊維産業の多くの工場が日本の各地、特に農村部で生産を開始します。これらの工場の規模は小さく、せいぜい10人程度の若い女性達によってその生産が担われていました。彼女達が活躍したのは一年のなかでも主に農閑期でした。短い期間でしたが、貧しい暮らしに与えられたうるおいは確かなものだったでしょう。

「賦金調-明治8年」(総務省統計局統計図書館蔵)

1 諏訪式繰糸機

(農林水産省HPより:https://www.maff.go.jp/j/meiji150/you/03.html#h202

明治維新後、西欧諸国からもたらされた先進技術をアレンジして使ったのが製糸業です。蚕を飼って繭を作り、糸を挽(ひ)きます。農村に暮らす多くの女性達が「製糸業」の働き手の中核として活躍しました。今でも日本の各地にかつて蚕を飼い、暮らしを助けた名残の桑の木を道の片隅に見ることが出来ます。戦前期、日本の輸出の過半を占めた繊維製品の多くは若い「女工」達によって作られました。もちろん、農村で育った彼女たちにとって、工場で長時間働くことは過酷な体験だったでしょう。病や事故で多くの命が失われたこともありましたが、仕事としてお金を稼ぐ手段の一つであったこともまた事実です。

繊維技術を比較的容易に活用することが出来た戦前期の日本でも、重化学工業での大量生産技術の普及には時間を要しました。自動車、鉄鋼、工作機械、等では、結局、戦前期には輸出競争力を確立することは出来ませんでした。 

1931年の満州事変の勃発以後の軍備の拡張過程において利用されたのが「町工場」です。1930年代の東京、大阪に集積した中小・零細工場と大企業の間には「下請け」制が形成されます。零細工場に勤める農村出身の若い職工が簡単な機械を使って注文に応じていました。多くの仕事を生み出す即席の大量生産を実現したのです。

貧困を克服するための技術移転・普及・伝播を経済モデルとデータを使用して検証する研究を進めています。戦前期の日本を対象にした近年の研究成果の一部を紹介しました。江戸期や現代の日本、さらに中国を対象にした研究を今後進める予定です。

      

参考文献