卒業生訪問

2022年3月24日

大阪で設計に向き合い続ける|広瀬和也(設計)

学部・修士の合計6年間、大阪市立大学建築学科で建築デザインを学んだ広瀬和也さん。
大学院の修了後は、関西を拠点に全国で設計事業を展開する東畑建築事務所の設計部門で活躍されている。
公共建築をいくつも手がけ、2012年には母校の理学部校舎のリニューアルにも携わった。
入学から現在まで、ずっと真っすぐに大阪で建築設計に向き合っている先輩に、話を聞いた。

01_DSC03615.JPG

「建築家になれるのはごく一握りの人たちです」

――まず、市大建築への入学時の感想や思い出からお聞かせください。

広瀬 とても衝撃的だったので、よく覚えているのですが……(笑)。当時教授だった建築家の難波和彦先生が、入学式の祝辞で「建築家になれるのは、この中で数名だと思ってください」とおっしゃったんです。「これから設計の勉強をしていくぞ」と、決意も新たに意気込んでいる初日に、先生から聞いた第一声がそれだったので、本当にびっくりしました(笑)。補足すると「建築物を建てるということは、社会的にとても大きな影響を及ぼすこと。その設計に携わることができるのは、当然ごく一握りの人たちです。それを胸に刻み切磋琢磨してください」という内容だったんですが、この言葉は、設計の仕事に就いた今でも鮮明に覚えていますね。

――どんな授業に関心がありましたか。

広瀬 現在もそうだと思いますが、1、2回生は語学や一般教養、あるいは工学部共通の基礎的な物理・数学の授業が多く、建築専門科目は限られていました。だから、2回生から受講する〈建築構造力学〉は、建築学科らしい勉強にやっと触れられたと感じた授業のひとつだったし、物理や数学も得意だったので楽しかったですね。

でもやはり、3回生の〈設計演習〉が格別に楽しかったです。1年間で4つの課題に取り組みました。当時の第1課題「向こう三軒両隣」は3、4人のグループ課題で、ひとつの敷地をうまく分譲し、そこに各自が戸建住宅を設計するという内容でした。グループ内で周囲の環境を読み解きながらコンセプトを決め、そこに住む人たちのイメージや、敷地の分割方法や共有路地・スペースのつくり方、敷地内の建物に統一感を持たせるためのデザインコードなどをみんなで議論しながら設計を進めました。その後は、個人課題の「美術館」「小学校のリノベーション」が続き、最後に大阪の中心市街地に「集合住宅つきの複合施設」を提案するグループ課題がありました。僕自身は、ひとりで机に向かって設計する時間よりも、みんなで考えをぶつけ合いながらまとめていく、グループだからこそ可能な設計プロセスのほうが楽しかった。

設計職に就いてから、社内の同期や先輩たちと、設計課題の思い出を話し合ったことがあったんです。そこで、市大建築のグループ設計課題の意義を再認識しました。他大の建築学科では、学生が100人単位でいることもしばしばあります。それに比べて、市大建築の定員は約30人と、かなり少なかった。そんな中でグループをつくれば、提案の数はさらに絞られますよね。その結果、各グループの提案はより具体化され、濃密になっていたように思います。

また個人設計でも、人数の少なさゆえのメリットがあったと思います。人数が多いと、どうしても成績上位の数名しか講評会に出られず、大半はプレゼンボードの提出で終わってしまう。しかし僕らは全員に、発表時間と講評の機会がありました。今考えれば、30人もの講評に付き合うなんて、先生たちは大変だったと思います(苦笑)。自主性や競争心が薄れてしまうのではないか、という危惧もあるかもしれませんが、学生時に全員が平等に発表の機会を得られ、何かしらコメントをもらえることは、貴重な経験になると思います。当たり前ですが、社会はとてもシビアです。どんなに練り上げたアイディアも、コンペに勝ち進めなければ発表の機会さえありません。だからこそ〈設計演習〉では想いをぶつけ、積極的に表現やプレゼンテーションの練習をしてほしいです。

研究室に入って学んだこと

――4回生になると、構造やデザイン、防災などさまざまな分野から所属する研究室を選択します。広瀬さんは、どんなことを考えながら研究室を決めましたか。

広瀬 僕は、当時助教授だった中谷礼仁先生の建築史研究室に入りました。中谷先生が展開されていた研究やゼミにとても魅力を感じたからです。その頃、中谷先生と建築家の宮本佳明先生(当時、大阪芸術大学)が、『10+1』という建築理論雑誌で「先行デザイン宣言 都市のかたち/生成の手法」(No.37、INAX出版、2004)という特集を組まれたんですが、それが本当に格好よかった。都市や建築の成立やその形態に対して、地理や歴史に基づく理論的な裏づけを示しながら、新しいデザインの手法を提案していくという姿勢に感銘を受け、こんなふうに設計提案ができたらなぁ、と。プロジェクトに参加していた先輩たちにも、とても憧れました。

10 1

『10+1 特集=先行デザイン宣言 都市のかたち/生成の手法』(No.37、INAX出版、2004)

研究室の中で僕が参加したのは、建築・民俗学研究者の今和次郎が訪れ『日本の民家』に記録した民家・漁村の現在をデザインサーヴェイし直す「『日本の民家』再訪ゼミ」と、建築理論家のクリストファー・アレクサンダーの当時未邦訳だった著書を読解する「『The Nature Of Order』翻訳ゼミ」でした。どちらもとても難解でしたが、せっかくのチャンスだから積極的にチャレンジしようと、自分を鼓舞して食らいついていました。

――建築学生にとって、卒業論文と卒業設計は、4年間の学びの集大成です。どんなテーマに取り組みましたか。

広瀬 卒業論文では、今から約100年前に今和次郎が訪れた農村と、都市の水源になっている河川の相補関係が、時代や開発によってどのように変化したかを調査しまとめました。今思えば、明らかに「先行デザイン宣言」の影響を大きく受けていますね(笑)。人びとがその土地に潜在する魅力やポテンシャルをいかに発見し、暮らしに取り入れてきたかを知りたかったんです。

卒業設計はとても悩みましたが、卒業論文の「場所のポテンシャルを発見し生かす」というテーマを、具体的な建築で表現するべきだとは思っていました。また、条件が厳しくても魅力的な可能性を秘めた敷地で設計をしたくて、滋賀県の琵琶湖と接続する「内湖」を選定しました。超郊外において人口が増加し、豊かな自然を壊し蝕んでいくような宅地開発ではなく、湖上で人と自然が共生していく住宅建築群を目指しました。一過性ではなく、自然とともに人の生活が進化していくヴィジョンを表現できたと思います。

――その後、広瀬さんは市大の大学院に進学されています。そこで取り組んだことや、修士論文で考えたことを教えてください。

広瀬 僕は大学院でも中谷研究室で学びたいと思っていましたが、中谷先生がその年から早稲田大学に移られることになりました。他大学の大学院への進学も考えましたが、結局僕は市大のデザイン研究室に進みました。修士1年では、腕試しに数えきれないほどのアイデアコンペに応募し、いくつかのコンペでは賞をもらうことができました。その後、修士2年になる前に、中谷先生と「先行デザイン宣言」をされた宮本先生が、市大デザイン研究室に着任されることになったんです。それで、修士論文の指導は宮本先生にしていただきました。

修士論文は、卒業論文を発展させました。コンテクストがないように思われる人工的な埋立地では、それはどのように捉えられ、現在のような都市・街並みが形成されてきたのか、という内容でした。当時は気づかなかったけれど、こうして俯瞰してみると「場所が持つポテンシャルを読み解いて設計をする」ことは、学部から今でも、僕にとって最大の関心なのだと思います。それは、僕が兵庫県宝塚市のニュータウンという開発された街で生まれ育ったことも影響しているかもしれません。対象がいつも水辺だったのも、憧憬のあらわれなのでしょうね。場所のコンテクストを真摯に読み解き、それを生かす設計ができるようになりたいという思いで、6年間学んできたように思います。

出身地や母校の設計プロジェクトに携わる

――修了後は、東畑建築事務所に就職し、現在も同社で設計をされています。進路はどのように決めましたか。また、印象深かったプロジェクトを教えてください。

広瀬 就職活動では、迷いなく設計職を目指しました。やってみたいことはいくらでもありましたが、その中でもたくさんの人たち、多様な人たちに長く愛着を持って使ってもらえる建築をつくりたいという想いが強かったんです。それで、大規模な施設の設計実績が豊富な現在の会社に入りたいと思いました。組織設計を選んだのは、グループ設計の楽しい思い出があったからだと思います。

特に印象深いのは、地元の《宝塚市立文化芸術センター》(2019)です。敷地は「宝塚ガーデンフィールズ」(2003~2013)の跡地でした。ここは「宝塚大劇場」とも近く、戦前から温泉や動物園といった遊興施設が立ち並んだ、まさに宝塚の娯楽や地域文化を象徴してきた場所です。僕が幼い頃に両親に連れていってもらった「宝塚ファミリーランド」もここにありました。その後、宝塚市がこの一画を文化芸術の発信地として再整備し、かつてのように大人も子どもも足しげく通える憩いの場所として、アートセンターをつくることになったんです。以前のにぎわいの記憶を引き継ぎつつ、文化、観光、市民活動の拠点となる建物を目指して設計しました。開館日が最初の緊急事態宣言発令と重なって延期になるなど、新型コロナウイルス感染拡大の影響を受けましたが、現在では徐々ににぎわいが創生されつつあります。


宝塚.JPG

《宝塚市立文化芸術センター》設計=東畑建築事務所・地域計画建築研究所・E-DESIGN設計共同体 

――《大阪市立大学理系学舎》の再整備(2015)にも参加されていますね。社会人になり、出身大学の設計に携わった感想を聞かせてください。

広瀬 《大阪市立大学理系学舎》プロジェクトは、老朽化した理学部校舎の一部を建て替え、一部を改修・耐震補強を行うものでした。入社して間もなく、母校のリニューアル設計に携わることができるなんて、こんな機会はめったにありません。もちろん感慨深かったのですが、「お世話になった先生や同級生のみんなから、どんな評価が返ってくるんだろう……」というプレッシャーのほうが大きくて(笑)。ただでさえ、建築は何十年もその場所に残るし大きな責任を伴いますが、いつも以上に身の引き締まる思いがしました。

僕は、主に各研究室の設計を担当しました。現状調査をしたところ、先生たちは研究内容に合わせて研究室をかなりカスタマイズしていることがわかりました。そこで、新しい校舎になってもストレスなく移行できるよう、部屋の什器配置や実験のために必要な設備を丁寧に考えながら、一つひとつを設計しました。加えて、今後先生が入れ替わっていく、あるいは技術の進歩に遅れることなく最先端の実験・試験ができる環境に改変するといったフレキシビリティと、先生や研究内容の個別性を両立し実装した空間づくりが課題となりました。初期段階から設備設計部門と協働し、断面をコンパクトにしながら適切な空間を確保する建築計画を模索し、実現しています。

――仕事の上で、広瀬さんはどんなことを大切にしていますか。

広瀬 毎回いろいろなことに悩みますが、特に、建物ができた後を思い描くのがとても難しいです。どんなにリサーチをして想像を巡らせても、その建物が結局どんなふうに使われるかは、実際に使ってもらうまで誰にもわかりません。だからこそ建築主に対して、期待を超える提案や真摯な想いを言葉にして伝えなければいけないと思っています。対話を積み重ね、建物ができて実際に使われるようになった後に「あのときのお話を信じてよかったです」と言ってもらえることが、最も嬉しい。設計冥利に尽きますね。


市大理系学舎.JPG

《大阪公立大学理系学舎》設計=東畑建築事務所

現在/未来の公大建築学生に向けて

――あらためて、大学で取り組んだ内容で、現在に強くつながっていると感じるものは何ですか。

広瀬 異分野の人たちと積極的にコラボレーションしながら設計をしていく姿勢だと思います。構造や設備、ランドスケープ、グラフィック、照明や建築音響、建材メーカーなど、広い範囲の専門家たちと一緒に仕事をするようになりました。お互いの専門性を発揮することで相乗効果が生まれ、デザインや機能性が向上し建築がどんどん良いものになっていくプロセスは、毎回ひとりでは生み出せないものになっています。

それを楽しいと感じられるようになったのは、グループ設計と研究室の経験が大きい。学部では〈設計演習〉が、修士1回では、都市専攻と建築専攻の〈建築設計特別演習〉(通称〈合同設計〉)が必須の履修科目でした。さまざまな価値観を持ったメンバーで議論しながらひとつのものをつくり上げるプロセスは、学生も社会人も関係なく、自分を成長させる重要な過程だと思います。研究室の「『日本の民家』再訪ゼミ」では、中谷先生は建築以外に、民俗学やランドスケープ、写真家といった異分野の専門家と積極的にコラボレーションをしていました。固定観念を捨て、さまざまな視点からの発見や問題提起を得て成果をまとめていく楽しさを、教えていただきました。


02_DSC03588.JPG

――反対に、今になって学生時代にやっておきたかったと感じることはありますか。

広瀬 月並みですが、勉強と同様に遊ぶことが大事だと思います。もちろんただ遊ぶのではなく、自分は何に興味があり、何をしているときが楽しいのか、あるいはサークルや仲間内で、どんなポジションからどんなふうに取り組むのが向いているのかを感じながら、遊びの中でさまざまなことに挑戦してみてほしい。

若いみなさんには、これから大学や大学院への進学、研究室の選択、就職など、自分の道を決めなければいけない瞬間がたくさんあります。そのときに、ステレオタイプにこだわらず、自分らしい選択をしてほしいんです。結局僕は設計一筋なところがあって、王道だとかブレていないと表現してもらえることもありますが、ステレオタイプに近い。設計においても、専門分野がより細分化・多様化すると同時に、包括的で柔軟な提案やアプローチも求められる時代になっています。そんなときだからこそ、自分にとって揺るがない好きなことは、今後の生き方において大きな指針や武器になると思います。

――設計が苦手な学生に、アドバイスをお願いします。

広瀬 僕もデザイン自体が得意だったわけではないから、当時はとても悩みました。今でさえ、多くの情報の中からひとつの建物をまとめるという、大変な労力と熱量が伴う設計プロセスには、いつも苦心しています。

学生のとき、先輩の山口陽登さん(現在デザイン研究室講師)が僕にくれたアドバイスは、まず建築雑誌をパラパラとめくってみて、自分の目に留まったものをまねてみることでした。初歩的に感じられるかもしれませんが、「狭い面積でもこういう平面計画にすれば動線に支障がないのか」とか「周辺を考慮したからこういうデザインを導けたんだ」と、図面やドローイングの模倣は、やはり一番の訓練になります。デザインを抜きにしても、模倣から練習していき、自分がどんな建築を好きだと感じる傾向があるのか、どんな課題に対してやりがいを感じたかを整理し言葉にしていくことは、いずれ設計以外にも役に立つと思います。

03_DSC03575.JPG

広瀬和也 ひろせ・かずや

1983年兵庫県生まれ。2007年大阪市立大学工学部建築学科卒業。2009年大阪市立大学大学院工学研究科都市系専攻(建築デザイン研究室)修了。同年より東畑建築事務所の意匠設計部門に勤務。《大阪市立大学理系学舎》(2015)、《宝塚市立文化芸術センター》(2019)などの設計に携わった。

2022年03月17日 東畑建築事務所にて
聞き手/應田有希(建築計画・構法研究室修士1年)、菅原淳史(建築デザイン研究室修士2年)、小林祐貴(建築情報学・図形科学講師)、西野雄一郎(建築計画・構法研究室講師)
まとめ/菅原淳史
人物写真/西野雄一郎
編集協力/贄川 雪(外部)