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人権は、私が大切にしてきた一冊の本のように、触れて、具体的なかたちを確かめることができません。でも、human rightsという言葉のさいごに「s」がつくように、人権は数えられるほど具体的で、そして複数あるものなのです。歴史の中で、差別や抑圧に対して「人間らしく生きたい」と声をあげた人びとによって、人が生きるためのニーズは「ことば」になり、そしてすべての人が保障されるべき権利となりました。 各国の憲法の中には、必ず「人権のリスト」――日本国憲法では10条から40条まで――があります。それらの諸権利を市民に保障する責務は、その国にあります。ただし、第二次大戦の惨禍を経験し、世界中の人びとは、人権の保障は一国だけに任せておけないことだと考えるようになりました。どこかの国の人種差別や植民地主義を許しておけば、世界は戦争に巻き込まれます。また、ホロコーストはドイツ国内では「合法的に」行われたものでした。ですから、人権は国際的関心事であるべきだ、と考えるようになったのです。 そこで、第二次世界大戦後の国際連合では、まず、「世界中のすべての人が、ひとしく、生まれながらにもっている人権のリスト」をつくり、これを世界の共通基準として実現するよう各国に求めていくことにしました。これが、1948年に国連総会で採択された「世界人権宣言」です。 世界人権宣言は、その後の国際人権諸条約のもとになった文書です。たとえば「子どもの権利条約」は、皆さんも学校で習ったことのある身近な国際人権条約ではないでしょうか。世界人権宣言も、国際人権条約も、そこに書かれているのは私たちの人権です。これらは「私たちの人権のリスト」なのです。
しかし、今こうしてこの文章を書いている私は、八〇年代半ばに法学部の「まじめな」学生として憲法や国際人権条約を学んでいたにもかかわらず、「そこに、私の権利が書かれている」と実感し、心おどるような思いをしたことはありませんでした。当時の私は、条文を知識として理解し、正しく解釈をすることができても、それが自分の経験、日常の暮らしに結びついていなかったのです。 人権が、「私自身の(そしてすべての人の)権利」であり、それを学ぶことがとても大切なことだと思えるようになったのは、大学を卒業した後、多くの人との出会いがあったからでした。差別をなくし、権利の平等な保障を求めて声をあげる人びとや、アジアの国々で民主化運動にたずさわる人びとと出会い、その考えや行動に触れ、人が自らの権利を知り、権利の主体としてそれらの実現のために行動することは、人間性を取り戻し、社会を変えることにつながるのだと教えられたからでした。 八〇年代にピープルパワーによってアジアで民主化の先陣をきったフィリピンでは、こんな経験をしました。民主化後の人権政策に関心を持ち研究をしていた私は、90年代以降、フィリピンを何度も訪れるようになりました。そこでは多くの人びとが「自分(市民)がどんな人権を持っているか」を学び、市民の人権を実現するアカウンタブルな国・政治を求めて声をあげ、行動している姿を目の当たりにしました。ある日のこと、NGOが主催する市民対象の人権学習会の見学にでかけたところ――それは、住民が普段着で来る「まちかどの学習会」のような場でした――そこに来ていた(今の私よりずっと若い)「普通のおばちゃん」が、一生けん命に「国際人権規約」を読んでいる姿を見かけたのです。日本では、そんな場面に出会ったことがなかったので、驚いて、思わず「なぜ?」とたずねた私に、彼女はこう答えたのです。「ここに私の権利が書かれているから」。 私はその時、初めて、憲法も国際人権諸条約も、そこに書かれているのは「私の権利(そしてすべての人の権利)」なのだということが、腑に落ちたのでしたi。そして、そのような実感をもって人権を学ぶことの大切さを理解しました。
日本では、私より、ちょっぴり先輩のワーキング・マザー仲間である友人が、私の「先生」になってくれました。在日コリアン三世の友人は、ある時、「国際人権規約に出会って、初めて国際人権が自分のものだと思えた」と話してくれたのです。彼女のご両親は外国籍であることを理由に、長年、国民健康保険や国民年金制度からは排除されてきました。これらの制度への加入は日本国籍者だけに限られていたからです。それがようやく変わるのは、日本が一九七九年に国際人権規約、一九八一年に難民条約の締約国となって以降のことでした。 というのも、国際人権規約は、社会保障における「内外人平等」を原則としていたため、条約の締約国となった日本は、国内の状況を国際基準に合わせなくてはならず、国民年金、国民健康保険加入の国籍要件を撤廃したからですii。また、日本がこの条約の締約国となったのは、当時、インドシナ難民の定住を受け入れることを決定した日本政府に対して、「日本で暮らす外国人に対して社会的な権利をきちんと保障せよ」という国際社会の外圧があったからでした。 ところで、国際人権規約を大学で学びながら、在日コリアン三世の友人のように、それが「私のものだ」と実感したことがなかったのは、私が日本で暮らす日本人である、という「私のマジョリティ性」のためでもあります。社会は、その社会のマジョリティ(多数派)に合わせて出来上がっているので、マジョリティにとってはその社会は居心地のよい「適温のお風呂」のようなもので、そこに不都合を感じている人がいる、などということに、気づかないのです。保険証をもって病院にいくことが当たり前だった私には、「子どもの頃、保険証がなく風邪くらいでは病院には行かなかった」という友人の経験を想像することができなかったのです。 ですから、私が皆さんにお伝えしたいのは、「人権を学ぶこと」が大事だということはもちろんですが、それを抽象的な概念や、条文上の権利としてだけでなく、「自分と、すべての人の大切な権利」として、「実感を持って」学んでほしいということです。そのためには、授業や教科書を通じて学ぶだけではなく、大学の内外で、たくさんの自分とは異なる人生を生きてきた多くの人たちと出会ってほしいのです。自分ではない誰かの「くつ」を履いてみて、社会と世界をみてください。
i 人権教育に関する基本原則を記した「人権教育及び研修に関する国連宣言」(2011年に国連総会で採択)の第1条は、 「すべての人は、人権と基本的自由について知り、情報を集め、手に入れる権利を有し…」という文言で始まります。自分の人権を知ることは権利です。ii 1981年12月31日に国民年金法の国籍要件が撤廃されましたが、老齢年金を受給するには25年の納付期間が必要で、当時35歳以上の人は加入しても受給できませんでした。その後、法律改正によって(1986)、このとき60歳未満なら、加入できるようになりましたが、納付期間が短ければ、受給額は少なくなってしまいます。また、このとき60歳以上なら加入できないままとなり、現在も外国人高齢者の無年金の問題が残されています。なお、1981年末当時、20歳以上で、すでに障害のあった在日外国人も無年金となり、この問題はまだ解決されていません。
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