Chaper2 部落問題のいま

にんげんの街=ダイバーシティの街づくりに取り組む浅香地区

木村 雅一(社会福祉法人あさか会)
プロローグ 夜明け

 今の大阪公立大学杉本キャンパスは、もともと旧制大阪商科大学、戦後は大阪市立大学のキャンパスだった。
 大阪市立大学と浅香地区は地理的には地続きの隣り合わせにあったにかかわらず、長い間大きく隔てられていた。目に見える無粋な鉄柵とそこで確実に線引きされるには理不尽な見えぬ意識の壁によって隔てられていた。大学にとっていくら隣近所であったとしても研究や学問で関係しない以上、縁があるものではない。だから、学生にとっても、市大に通っている四年間、一度も浅香を訪れることがなかったとしても、そのことは何ら不思議ではなかった。
 一方、浅香からみても、部落差別の中で義務教育すら満足に受けられなかった多くの住民にとって、大学などまさに夢のまた夢であり、大学生の存在もまるで別世界の出来事であった。お互いが、無関心のままであったのだ。
 地理的にも浅香は、北に広大な地下鉄車庫、南に大和川、東の吾彦大橋と西の市立大学に隔てられた「陸の孤島」であった。しかも、大和川の堤防上と河川敷に軒を並べるあばら屋や廃品を雑然と置きっぱなした寄せ場、それに廃品回収や土木作業という半失業状態の日常は、まさに貧困の極みにあった。
 まだ封建遺制が色濃く、「政府・自治体=お上」という考え方が強かった60年代、部落解放運動は燎原の火のごとく全国に広がった。被差別の側からの血と汗と涙の異議申し立ては、知らぬ存ぜずで進んできた国や地方公共団体をして厳としてある部落差別を認めさせ、差別撒廃に向けたとりくみの具体化に踏み出させる力となった。
 浅香地区においても、1965年部落解放同盟浅香支部が結成され、差別撒廃に向けた自主的なとりくみが始められることになる。しかし当時、まだ部落差別は人々の心に当たり前の如く存在していた。
 その差別の実態を真正面に見据えた環境改善や就労保障のとりくみが始まることになる 。

起きてみろ、夜明けだ!

 全国的な差別反対という大きな声は、まず浅香地区の住民に伝播していく。
 日本国憲法において規定されている「法の下の平等」や「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」がなぜ保障されないのか。なぜ我々は、河川敷の水害に怯えながら、住まなくてはならないのか。なぜ我々は他地域で反対された地下鉄車庫を受け入れさせられなくてはならないのか。なぜ我々は、日雇い仕事にしかつけず、貧困の極みにおかれているのか。なぜ我々は義務教育からまでも排除されるのか。
 「寝た子を起こすな」意識が強かった浅香地区でも当事者の怒りは大きくなり、自分たちが起ち上がらなければという当事者運動の機運は日々に強まっていった。
 まず、浅香住民が教育への関心を高め、自主的な子ども会を生み出した。その動きに呼応して、学生たちがその手助けに入る。「部落差別の現実に学ぶ」がその行動指針であった。なぜ部落だけが未だに劣悪な環境におかれ、改善の余地すらないのか。浅香地区を訪れるようになった人々の共感が集まり、浅香においても市大や市民・労働者の結びつきが強化され始めた。
 そんな中、74年に行われた浅香地区実態調査は、被差別の実惑を持つ浅香地区住民と市大の研究者との最初の共同作業となった。他大学に先駆けて市大で部落問題に関する講義が始まった。そこで、差別された体験を浅香住民から学生が聞く機会が設けられ、学生も浅香ヘフィールドワークに出かけるという、より確実なつながりが生まれた。
 多くの学生にとって、授業の一部で浅香と関わるようになったことは大きな前進であるとはいえ、あくまで授業の一部であり、自発性や必然性の薄い、まだまだ不自然な関わりでしかなかったともいえる。差別解消という視点を共有するものとはいえ、まだ「差別・被差別」というその一点での二項対立に根ざしたものでしかなかった。その問題に着手するには地理的な条件の成熟を待たねばならなかった。
 差別をなくすための街づくりの過程で以下のような「街づくり4つの理念」の共有化も獲得出来た。とりわけ、「にんげんの街。-街づくりの中心はあくまで人間である。人いきれがし、生活のにおいがする。懐かしい街のにおいがする。人が集い、街をつくり、活力が生まれる。男がおり、女がいる。年寄りがいて、壮年がおり、若者も子どももいる。在日朝鮮人や韓国人ばかりか多くの国の人々が暮らしているし障害者が地域に根ざして生きている。あくまで、人間が第一であり、性別、出生、国籍など問う必要はない。ここでは、ひとりひとりが主人公であり、対等であり、平等である。ここでは各々の立場を理解し合おうとする雰囲気と熱気と力強さが醸し出されている。これこそがにんげんの街である。」と80年代当時からダイバーシティの街づくりを宣言した。なお、のこる3つの理念は次の通りである。
 「住民自治の街。-住民が互いに助け合いながら、 認め合い、尊重し、自立を最大限にする。」
 「水と緑の街。-大和川を中心に土や木を感じ、春夏秋冬がある。」
 「教育と文化の街。-子どもたちが育ち、歴史も引き継がれ、新しい文化が生まれる街。」

エピローグ 両側から越える

 90年代、浅香の街は掲げた4つの理念を実現しつつ地下鉄車庫跡地利用の街づくりを通じてその様を大きく変えることになった。町並みは改修整備され、河川敷や堤防上にあった不良住宅群は立ち退き交渉の末、撤去され、一部は大阪市営住宅に姿を変えた。地下鉄車庫跡地には公園やグラウンドなど誰もが憩える施設が完成する。
 21世紀に入ると、大阪市行政の風がアゲインストとなり、人権文化センターや青少年会館、老人センターという社会的資源が閉じられ、解体されるという事態となる。
 その結果ともあいまって、差別行政糾弾闘争から始まった部落の差別解消運動は、住民が中心となった自立した街づくり運動に深化した。以後、社会福祉法人あさか会が中心となって、人権の視点と福祉の視点を結びつけながら、地域密着での事業が行われ、プラットホームとして福祉事業の展開の中、自前での街づくりも進められてきた。
 市大もまた基本計画に着手し、まず学術情報センター付近を中心に壁が取っ払われ、地理的な一体惑が実現する。
 それによって市大キャンパスと浅香の街の一体惑が産み出されることにもなり、日々、学生や住民が街を行き交い、中央公園や跡地施設における事業への協同参加を通じて、その営みはさらに確固なものとなりつつある。
 今や、隔たりは無くなったも同然である。
 が、それは勝手になくなったものでも、一朝一夕になくなったものでもない。少なくとも20世紀の半分をかけて、多くの先逹や先輩が、自らの血と汗と涙で勝ち取ってきたものに他ならない。だが、部落への予断と偏見にもとづく差別が完全になくなったとはいえない。差別は、間違いなく解消の過程にあるとはいえ、自然となくなるものでない。不断の努力が必要だ。
 続けよう。
 継続こそが、過去を引き継ぎ、未来を保障するものである。条件は揃っている。後は、「私」の意志であり、「私たち」の想いである。今後、より進むであろう少子高齢化の中、様々な人々が知恵を出し合い、共感をデザインしながら、差別・被差別の二項対立を両側から越えながらダイバーシティの街づくりは進んで行く。
 肩の力を抜いて、一歩一歩先へ進む。