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近代国家の成立と近代憲法の性質
西洋近代国家誕生の濫觴となった市民革命は、「専制に対する自由のための戦い」であった。 「自由」を核心とする近代は、倫理的観点から表現するならば、個人が自ら設定した幸福や快楽の追求を人生の至上目的とする功利主義であり、経済的観点からは個人の自由な商業活動による市場経済と資本主義である。 革命の勝者となった市民たちが、まさに勝利宣言として制定した人権宣言や憲法の中の個人主義的・自由主義的で不可侵な「人権」の保障規定は、近代的な主義・主張や価値観の法的次元で現れなのである。 近代憲法は、人間中心主義的・個人主義的・自由主義的な性質を持っているのである。 日本国憲法もまた人権保障の出発点ともいえる13条において、「すべて国民は個人として、尊重される」と規定し、続けて「生命、自由および幸福追求権」を保障する。日本国憲法を、近代憲法の「申し子」と評した憲法の大家がいたが、まさにその通りである。
自由と自己決定
ここでいう幸福追求権を根拠にして、新しい人権が語られ、環境権もまたこの文脈にのせられる。一般には、人間が「健康で快適な生活を維持する条件としての良い環境を享受し、これを支配する権利」として理解され、権利性を強めるため(権利として、外延が広がり過ぎて、内包が薄くならないため)、ここでいう環境とは、遺跡や公園などの文化的・社会的環境を含めず、大気、水、日照などの自然環境に限定するというのが多数説である(芦部)。環境権も先ずは自由権的に位置付けられるのである。 自由(権)の本質には自己決定(権)があり、その限界は「他者加害原則」によって画される。つまり、自己決定能力を有するものは、自己に関する事柄について、たとえそれが自己に不利益をもたらすものであっても、他者に危害を及ぼさない限り、自己決定できるとするものである。根底には、J. S.ミルの考え方があり、倫理学的には「生命倫理学(バイオエシックス)」に通ずるものである。
環境倫理学の主張
しかし、自身の周辺環境ではなく、地球環境全体、すなわち人間以外の動植物をはじめ利他的要素を含む自然環境全体で考えた時、環境権のこうした利己的位置付けで満足することで、はたして現在進行形で展開する地球規模での環境破壊を食い止めることはできるのであろうか? というのも、人間こそ「神の似姿」(ユダヤ=キリスト教)あるいは「万物の霊長」(儒教)であることで、他の動植物の生殺与奪を握る比類なき存在としてこの地球上に君臨し、地球資源を思いのまま使うことで繁栄を謳歌し、自己の利益を最大値化することが最善であるとみなしてきたからである。つまり、地球環境の破壊の実行行為者が、まさに人間自身だからである。 近時の「環境倫理学」は、こうした行き方に対するアンチテーゼである。それは概ね、次の3つの主張から成り立っている。①自然の生存権の承認:人間だけでなく、生物の種、生態系、景観などにも生存の権利がある(人間だけに生存権があるとすると、人間の生存を守るためという理由で、自然破壊が正当化される)、②世代間倫理の認識:現在世代は、未来世代の生存可能性に責任がある(環境を破壊し、資源を枯渇させるという行為は、現世世代が加害者、未来世代が被害者という構造を持っている)、③地球全体主義の採用:地球の生態系は開いた宇宙ではなく閉じた世界、すなわち有限なものであるとする(有限な地球環境の保全がすべての価値判断において優先される「絶対的なもの」となる)、というものである(加藤)。 この主張は、これまでの人間中心主義的・個人主義的・自由主義的な近代の人権保障体系への異議申立てでもある。地球は、自然科学的には有限であっても、未知のものがある間は事実上無限であるとの思考で、本来は有限な地球資源を現世世代が無尽蔵に消費し廃棄できるとする制限なき自由主義や、自分の所有物は自分の責任で勝手に処分して良いとする個人主義は、未来世代の処分分を略奪することをもたらすし、地球全体主義の主張の前では、雲散霧消しうる。他者に危害を加えなければ、個人は何でも自由にできるとする他者加害原則は、たとえば、北半球に住む個人の経営する工場の煤煙が、南半球に住む別な個人の家を洪水で押し流す原因になるとの関係が議論される中ではもはや通用性をもたない。
人権と環境と相生は可能か?
確かに、人間による人間の支配、その多くが専制的・全体主義的な抑圧的体制の中でおこなわれる支配、が依然としてまかり通っている世界の現状を前にして、「人間が人間である以上、どんな人間でも人権を持つ」として、人間中心主義的・個人主義的・自由主義的な人権保障体系を語り、その保障の必要性に言及することは重要である。が同時に、「人」権に潜む「傲慢さ」や「エゴ」をも認識する必要があるのではないか。別な言い方をすれば、人間に限定され、人間の側からしか語られず、しかも個人主義的で自由主義的な現世世代の人権と、その枠を超え他種や未来世代しかも全体主義的対応が必要となる地球環境保全との間で、相生は可能なのか、それとも択一的な相剋を演じなければならないのか、ということである。その答えを出すことは、想像以上に難しく悩ましい。かくいうわれわれも人間としての種にとどまっているのだし…
日本国憲法の人権保障を語るにあたって
環境倫理学の異議申立てを、日本国憲法に向かわせるとするなら、第3章の人権保障体系のコペルニクス的見直し・転換を求めることに通じてこよう。 本来は、新たな人権保障の体系化を試みそれを提示すべきであろうが、その能力に欠ける私は、担当する憲法の人権保障の講義をするにあたって、人権の大切さと共に、そこに潜む人間中心主義的「傲慢さ」や「エゴ」に言及にとどまっている。その時は、レヴィ=ストロースの「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」との警句を引用するとともに、頭の中では小さな蝶が羽ばたいている(いわゆる、バタフライ・エフェクト:一つの場所での小さな変化が、別な場所での大きな変動を引き起こすことに通じること。ここでは、個人の小さな環境破壊が、地球規模での環境破局をもたらしうるのではないかとの危惧を表すものとして用いている)。 戦闘的なエコロジストからすれば、地球環境の破局が眼前に迫っているにもかかわらず、狭い講義室での議論にうつつを抜かしている、これだから傍観者的な学者は食えないのだと叱責を受けそうである。がしかし、私の心の中には、みずからの「傲慢さ」や「エゴ」を認識しているかどうかという小さな差が、次世代に向けていずれは大きなエフェクトを引き起こすのだとの淡い期待が秘められている。
【主要な参考文献】
・レヴィ=ストロース著・川田順造訳『悲しき熱帯Ⅰ・Ⅱ』(中央公論社・中公クラッシクス、2001年):20世紀の「知の巨人」の一人とされるフランスの文化人類学者で、構造主義を標榜する著者の作品。本書は、「自らの根源を忘れてしまうこと」と「自らの増殖で破壊すること」が人類を脅かす二つの禍であるとして、それらへの不安の表明として書かれた(同社版へのメッセージ)。
・加藤尚武著『環境倫理学のすすめ』【増補新版】(丸善出版、2020年):エコロジー運動の哲学的・倫理学的基礎の解明をめざして生まれた思想である「環境倫理学」の三つの主張(本文参照)を、秀でた倫理学者である著者が要約・解説・論評するとともに、環境問題に対する具体的な提言もおこなう。
・芦部信喜著・高橋和之補訂『憲法 第八版』(岩波書店、2023年):日本国憲法の通説を形成した卓越した憲法学者である芦部博士による教科書に、高橋教授がその後の議論や判例を取り込み補訂を施した教科書。日本国憲法を学ぶ者にとって避けては通れない一冊といえる。
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