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歴史を学ぶ、研究することの根本は、「史料を読解すること」だと思います。史料に即していない考察は、歴史学的にあまり意味を持ちません。では「史料を読解する」とは、どういうことなのでしょうか?それは、単に辞書を使って、古い文献・古文書に書かれている文章の意味を理解する(現代語訳する)ということではありません。どういう理由で、あるいはどのような状況のもとで、その史料は作成されたのか(書かれたのか)、また、どうしてその史料が現在まで伝えられることになったのか、その経緯はどのようなものだったのか、などといったことも十分に調べなければ「史料を読解」したことにはなりません。つまり「史料を読解する」ということは、そこに直接文字化されていない情報も視野に入れた上で、史料を解釈するということなのです。このような作業を経ることで、様々な事象の有機的結びつきを総体的にとらえた歴史像を描くことができます。歴史を学ぶ、研究する際には、目の前に現れていることだけを対象とするのではなく、その背後までも視野に入れて“物事を深く考える”必要があります。
「歴史を学んで何の役に立つのか?」という声をよく耳にします。確かに歴史を学んでも、即座に経済的な利益を得たり、技術革新が達成されたりすることはないかもしれません。しかし、「役に立つ」ということは、経済的利益や技術革新だけに限られることでしょうか?そのようなことは決してないと思います。歴史を学ぶことによって、とても大切なことを身につけることができると思います。それは“物事を深く考える”習慣です。先ほど「史料を読解する」ということを述べましたが、目に見えていることだけではなく、その背後まで深く考察するという歴史学研究の基本的姿勢は、社会の様々な分野で必要とされる能力だと思います。このような姿勢をないがしろにした考察・判断は表面的で、一時を取り繕うことはできても、物事を本質的に変えたり、改善させたりすることにはつながらないでしょう。歴史を学ぶ中で身につけた“物事を深く考える”というスキルは、本当の意味で社会を豊かにするためには必須の姿勢だと思います。また、歴史そのものを知ることが、現在という時代を読み解く上で、非常に重要であるということ忘れてはならないと思います。昨今、様々な制度や仕組みが「無駄」であり「不公平」「非効率」であるため、「改革」する必要があるということがさかんに言われています。制度疲労というものは必ず起こりますから、その都度柔軟に対応することは必要不可欠です。しかし、ここで過去の経緯(歴史)に思いをいたすことも大切なのではないでしょうか。つまり、なぜ「無駄」で「不公平」な制度・仕組みが出来上がってしまったのか、ということに目を向ける必要があるのではないかと思います。現在では「無駄」や「不公平」に見えても、多くの場合、それを生み出した何らかの理由・原因があったはずです。その時点にまで遡り、かつてこの制度・仕組みを必要とした状況は改善・解消されているのか、ということまで考慮してはじめて「無駄」であるか否かの判断ができるのではないでしょうか。このように過去の経緯(歴史)をふまえることなく、表面的に「改革」をおこなっても、本質的なことは何も解決されないことになるでしょう。物事を深く考えず、「改革」の号令のもと、ボールの転がった方向へ全員で突進する、下手くそなサッカーのようなことをしても、「効率的」な「改革」はとうてい望めません。私たちが直面している問題に向き合い、社会全体を豊かにするためには、現在に至るまでの物事の経緯=歴史をしっかり踏まえなければならないと思います。その意味で、歴史を学ぶということは、とても大きな意味をもっているのではないでしょうか。
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