特徴的な研究事例
数学科
環論と代数幾何学
神田 遼
数学は代数学、幾何学、解析学などの分野で分けられることが多いですが、これらの分野を結ぶ理論はたくさんあります。ここでは代数学と幾何学の間の関係の一例として、環論と代数幾何学の結び付きをご紹介します。
環論は文字通り環という概念についての理論です。2つの整数の和と積は整数であり、結合法則や分配法則といったいくつかの性質を満たします。このように和・積の2つの演算を持つ集合で、 しかるべき性質を満たすものが環と呼ばれます。 整数全体の集合の他にも、有理数全体、実数全体、複素数全体の集合、さらには多項式全体の集合や(実数変数・実数値)関数全体の集合、n×n行列全体の集合などにも自然な和と積が定義され、環の構造を持ちます。
一方、代数幾何学は多項式の零点集合(より正確には、いくつかの多項式の共通零点の集合)として定義される図形である代数多様体、およびその一般化を研究する学問です。 例えばx2+y2-1という2変数多項式を考えると、その零点集合はxy平面においてx2+y2-1=0を満たす集合であり、つまりこれは原点を中心とする半径1の円周です。 この円周を定義域に持つ関数のうち、正則関数と呼ばれる関数の全体をRとおくと、このRは環になります。 そして実は、この環Rの代数的情報だけから、元の円周を本質的に復元することができます。 こうして円周という幾何的対象は、環Rという代数的対象と対応し、円周の様々な幾何的性質がRの代数的性質と結び付きます。 例えば、空間において次元というのは基本的な不変量ですが、環に対しても、代数的に定義されるクルル次元という概念があり、円周の次元が1であるという事実は、対応する環Rのクルル次元が1であるという事実と対応します。 こうした考え方に基づき、古典的な代数多様体の概念をはるかに一般化して構築されたのが、グロタンディークによるスキームの理論であり、これは現代的な代数幾何学の基礎理論として扱われています。
さて、実数という概念を用いて実ベクトル空間が、複素数という概念を用いて複素ベクトル空間が定義されますが、一般の環や代数多様体に対しても同様の概念が定義でき、それは環上の加群、代数多様体上の連接層と呼ばれます。1つの環(代数多様体)に対して、その加群(連接層)全体の集まりは圏と呼ばれる構造を持ちますが、このような圏を考えることで、一見異なる対象同士の深い結び付きが明らかになります。 例えば、n次元射影空間の連接層の圏は、ベイリンソン代数と呼ばれる環の(有限生成)加群の圏と導来同値であるというベイリンソンの定理がその代表例として知られています。
環上の加群の圏や、その一般化であるアーベル圏が私の主な研究対象であり、特に、代数多様体やスキームの幾何的な情報が、その連接層の圏に反映される現象に興味を持っています。 例えば、ネーター性という性質を持つスキームに対して、その中に含まれる空間(閉部分スキーム)が、対応する圏の一部分(準連接層の圏の閉部分圏)と1対1に対応するという定理が知られていましたが、私はこれを、局所的にしかネーター性を持たないようなスキームに対して一般化しました。このような圏の研究では新しい理論が次々に現れており、今後の発展が楽しみです。
物理学科
量子楕円渦の発見:自発的対称性の破れの新展開
竹内 宏光
この記事では最近の実験観測をきっかけにして理論的に導き出された自発的対称性の破れ(SSB: Spontaneous Symmetry Breaking)に関する研究の新たな展開を、筆者の最近の研究[1](ネマチック・スピン秩序を有するボース・アインシュタイン凝縮体中の量子楕円渦)に基づいて紹介します。
本学名誉教授の南部陽一郎先生がノーベル物理学賞を受賞された研究では、物性物理の超伝導現象を説明するSSBの概念が素粒子物理に応用されました。この事実に裏打ちされるように、SSBは素粒子・原子核・宇宙物理から物性物理に至るまで、あらゆる物理系に適用される普遍概念です。SSBが起こった物理系の性質を記述する際には「場」と呼ばれる時間と空間に依存した関数が共通して用いられます。つまりは場の運動を計算することができればその系の挙動を予測できるわけです。ところが場の自由度は無限大であるためその計算は一般に困難です。
場の複雑な運動を記述する上で有効な方法があります。それは位相欠陥と呼ばれる場の中を漂う物体にその自由度を代表させるというやり方です。位相欠陥の「芯」の周辺では場はある決まった構造をとります。そのため芯の中心を質点の運動のように記述することで場の運動も近似的に予測できます。この状況はちょうど台風の目の進路を見れば今後の風向きの変化をある程度予測できることに似ています。超伝導体と超流体といったSSBが起こる典型的な物質では、この「風」は抵抗なしの電流と摩擦なしの流れに対応しています。対称性の破れ方に応じて芯の周りの場の構造は予測できるので、対称性の破れ方を大局的に把握していれば位相欠陥の挙動、すなわち場の挙動もよく理解できると考えられてきました。
このような予測を否定する現象がソウル国立大学のShin教授の実験グループによって最近観測されました[2]。この実験系の対称性の破れ方は良く知られる通常の超伝導体・超流体と同様であるため、そこで現れる量子渦と呼ばれる位相欠陥の芯の形状は台風の目のように丸い点状になると予測されます。ところが実際に観測された位相欠陥は線状のものだったのです。図1は相転移を急に引き起こすことで生じた位相欠陥を実験で撮影した写真です。当時この位相欠陥は既知の2種類の位相欠陥が複合したもの(複合欠陥)とされ、臨界点近傍の相転移過程で一時的に起こる過渡的な状態だと解釈されました。
もっと根本的に異常な状態が実現することが筆者による理論解析によってごく最近明らかにされました[1]。写真では線状の芯が容器の端から伸びて中央で途切れた構造をとっていますが、[1]によると最もエネルギー的に安定な状態は両端を持つ線分状の芯構造です。奇妙なことに流れは線分を迂回するように楕円に沿った構造をとります(図2右)。この事実は位相欠陥の運動がもはや質点のように扱える回転対称な渦としてではなく、楕円渦として線分のように扱わなければならないことを示唆しています。この異常な現象には芯の内部におけるSSBが深く関与していることがわかっています。SSBの研究は古くから行われていますが、芯内部の局所的なSSBがどのように起こるのか、またそれが位相欠陥の挙動にどのように影響するのかについて一般的な理解は得られていません。
位相欠陥は超伝導体のような特殊な物質中だけでなく結晶や液晶といった馴染みのある系からスピントロニクスといった最先端の科学技術に至る様々な物性系で顔を出し、はたまた初期宇宙の相転移や高速回転する中性子星の内部運動でも重要な役割を果たすと考えられています。今後も上記発見のようなSSBに関する新たな展開が実験技術の向上とそれに応じた理論の進展によりもたらされ、物理分野全体に波及することを期待しています。
参考文献
[1] H. Takeuchi, Quantum elliptic vortex in a nematic-spin Bose-Einstein condensate, Phys. Rev. Lett. 126, 195302, 2021.
[2] S. Kang, Sang W. Seo, H. Takeuchi, and Y Shin, Observation of wall-vortex composite defects in a spinor Bose-Einstein condensate,
Phys. Rev. Lett. 122, 095301, 2019.
化学科
微小反応場の化学
迫田 憲治
多くの化学反応は溶液のなかで生じます。ここで、実際に実験で用いる溶液の量に注目してみますと、多くの場合、目に見える量の溶液(例えば 数十 mL とか)を使って実験をしています。一方、もし、溶液の量をものすごく少なくしたら、例えば、0.00000000001 mL にしたら、目に見える量の溶液のときと同じような化学反応が生じるのでしょうか。じつは、少なくとも直径が10ミクロンくらいよりも小さな液滴(微小液滴)では、化学反応の様子がかなり異なることが分かってきました。例えば、目に見える量の溶液(バルク溶液と言います)と比べて、微小液滴では化学反応が速く進んだり、バルク溶液とは異なる反応選択性を示したりする例が世界中から続々と報告されています。
それでは、なぜ微小液滴ではバルク溶液とは異なる反応が進むのでしょうか。この原因についてはまだはっきりと分かっていません。私たちはこの原因を物理化学的な観点から明らかにしたいと考えて研究を進めています。特に私たちは、微小液滴内の化学反応を調べるために、単一の微小液滴を安定に空間捕捉し、この液滴をレーザー顕微鏡で詳しく観察するための装置を独自に開発しています(図1)。
安定に空間捕捉された単一の微小液滴に光を照射すると、その光が液滴のなかに閉じ込められる、という現象が生じます。これは微小液滴が光共振器(合わせ鏡のようなもの)として振る舞うためです。微小液滴が光共振器として振る舞う性質を上手く利用すれば、液滴内部に溶存している分子の振る舞いを詳しく調べられることが私たちの研究で分かってきました。どうやら微小液滴のなかでは、分子がある特定の方向を向いており、これが微小液滴とバルク溶液での化学反応の違いを生み出す主要な原因の一つではないか、ということが明らかになってきました。
微小液滴とバルク溶液では化学反応の特徴が大きく異なるわけですから、微小液滴のなかでの化学反応を詳しく研究していけば、これまで普通の体積をもった溶液の中では作ることができなかった化学物質を合成できるようになるかもしれません。また、生命現象の基本単位は細胞であり、細胞の中では莫大な数の化学反応が生じています。細胞というのは、水がつまったミクロンスケールの袋なわけですから、もしかしたら試験管のなかでの生化学反応と細胞中での生化学反応は異なる振る舞いを示すかもしれません。微小液滴の化学はそんなことを想像させるほど、ワクワクする現象を私たちに示してくれています。
課題解決のための触媒技術
亀尾 肇
人類は引き続き発展していけるでしょうか?これを達成してゆくには”触媒”の力は必須です。これまで触媒の力で人類は数多くの課題を解決してきました。例えば、鉄系触媒を用いるハーバーボッシュ法。空気中の窒素からのアンモニア合成を実現したその方法は「空気からパンを作る反応」とも言われ、もしこの方法が無ければ現在も人類の 1/3 は存在できないと言われています。
現在、人類の問題は多様化して、環境、エネルギー、資源の問題など解決すべき課題は多岐に渡ります。これらの問題に立ち向かうため、より高度な触媒技術が必要となっています。
触媒開発においても最も重要なことの一つは、触媒と反応する化合物との間に起こる相互作用をよく理解することです。その理解を基に分子レベルでデザインした触媒を設計、創製することで、多種多様な触媒作用を生み出すことができます。私たちは、触媒作用を示す遷移金属と化合物の間に起こる新しいタイプの相互作用について研究しています。そして、その相互作用に注目することで、強固な結合群が変換できることを見出してきました。例えば、ケイ素が形成する最も強固なケイ素-フッ素結合を触媒的に変換する手法を世界に先駆けて報告しています。
多くの化学反応では、より強固な結合を形成することが反応の駆動力ですので、その逆の強固な結合の変換を達成するのは簡単ではありません。しかしながら、もし、強固な結合が触媒的に変換できると、新たな効率的な合成法を実現できるだけでなく、生産品をリサイクルできる可能性も広がり、高度な触媒技術の開発に研究を展開できます。
今後も、効率的な合成やリサイクルを実現する反応の開発を目指し、環境問題やエネルギー問題に貢献する研究を展開していきます。
遷移金属 (Pd) とルイス酸 (BF3) により、強固なケイ素‒フッ素結合が切断される様子
生物学科
知性を考慮した生態研究から魚類の賢さや社会をひも解く
安房田 智司
「賢い」動物というとどんな動物が思い浮かびますか?チンパンジーはもちろん、身近なイヌを思い浮かべる人もいるでしょう。では、魚はどうでしょうか?近年の研究から、実は魚も「賢い」こと、そして、これまで単純とされてきた魚類の脳構造や神経基盤は、哺乳類と相同であることがわかってきました。私たちの研究室では、魚の知性を考慮した生態研究を世界に先駆けて展開し、主に脊椎動物の認知能力や社会性の解明に取り組んでいます。これらの一部、特に共生する魚類の最新の研究を紹介します。
ハゼの仲間にはエビと一緒に暮らす種類がいます(図1)。エビは砂底に掘った巣穴を隠れ家としてハゼに提供します。一方、ハゼは巣穴の入口でエビのために見張りをします。しかし、実際は、エビとハゼがお互いに餌を与え合うことが共生関係の維持に遥かに重要であることを、私たちは発見しました 参考PDF 。ハゼは巣穴の中で自身の糞を餌としてエビに与え、代わりにエビは巣の外で砂底を掘り返す「溝掘り」をすることで、餌である底生動物をハゼに与えます。さらに、ハゼはエビに尾を振って、捕食者の接近を知らせますが、尾の振り方を変えることで、「溝堀り」をしてもらうためにエビを巣外へ呼び出すこともわかりました。ヒトもイヌやイルカに異なる合図を出すことで、違う行動を誘発できますが、同じことをエビとハゼが行っている可能性があるのです。ハゼだけでなくエビも想像以上に高い知性を持っているかもしれません。
水槽実験では、魚の体表の寄生虫を食べる魚(掃除共生魚)、ホンソメワケベラに注目しています。ホンソメワケベラは、日々、たくさんの魚の体を掃除します(図2)。そのため、個体間関係がとても複雑で、協力や裏切り、罰など、ヒトの暮らしに恐ろしいほどよく似た関係があります。私たちはこの魚が鏡に映る自分の姿を見て、自分だと認識できることを、魚類では世界で初めて発見しました。つまり、自分の存在そのものを魚が認識している可能性があるわけです。また、最新の研究から、ホンソメワケベラは鏡に映った像を顔で自分だとわかる可能性が高いこともわかってきています。魚の「賢さ」は私たちの想像を遥かに超えているのです。
私たちの研究室では、この他、クマノミやアユ、イトヨ、カジカ科魚類、アフリカの湖のカワスズメ科魚類に加え、今後はエビやタコも含め、知性を考慮した生態研究から、動物の賢さや社会性を解明していきます。
図1:ダテハゼとニシキテッポウエビ
図2:カサゴの体を掃除するホンソメワケベラ
第三の目の色検出のしくみに迫る
寺北 明久・小柳 光正
人の目には3種類の色(赤、緑、青)の光をキャッチする光受容タンパク質が別々の細胞(光受容細胞)に存在し、それら異なる細胞によりキャッチされた光情報が複雑な神経回路により処理されることにより、色を見分けることができます。 一方、円口類、魚類や爬虫類などの脊椎動物では、目に加えて第三の目とも呼ばれる松果体という脳内器官があり、そこでも、紫外(UV)光と可視光の比率を検出、すなわち色の検出をしています。私たちはこの松果体での色検出のしくみについて研究を行っており、最近、いろいろなことがわかってきました。まず魚類や爬虫類の松果体における色検出システムは、目のシステムとは異なり、UVを感じる光受容タンパク質と緑色光を感じる光受容タンパク質が、1つの光受容細胞にセットとして存在すること(1細胞システム)がわかりました。これは、色ごとに別々の光受容細胞を用いる私たちの目とは異なる独自のしくみです。ところが脊椎動物の中で最も古くに枝分かれした円口類のヤツメウナギ(図1)の松果体の色検出のしくみを調べると、この2つの光受容タンパク質は別々の細胞で機能していること(2細胞システム)がわかりました。つまり、ヤツメウナギと魚類・爬虫類では、松果体の色検出のしくみが異なります(図2)。さらに、光情報が細胞応答に変換される過程に関わるタンパク質の解析や2つのシステムの性能などの比較から、松果体の色検出システムは、2細胞からより優れた側面を持つ1細胞へと進化を遂げたと考えられました(詳細は大阪市立大学の プレスリリース を参照)。
私たちの目は、進化の過程で、赤、青、緑などの色を感じる光受容タンパク質が別々に1種類ずつ存在する細胞を獲得し、それらの光情報を複雑な神経回路を使って統合するしくみへと最適化されたと考えられています。一方、第三の目である松果体では2つのメカニズムが1つの細胞に融合したような進化をしたと考えられ、目とは逆方向性の進化を遂げたと想像されます。
図2
地球学科
顕微メスバウアー分光法を用いた鉱物中の鉄の分析
篠田 圭司
岩石鉱物薄片試料に普遍的に存在する鉄の価数(Fe2+かFe3+か)とFe2+とFe3+の量比を、薄片状態つまり単結晶のままでの局所非破壊で分析することを目指して、半導体検出器を用いた顕微メスバウアー分光器を製作し、57Fe顕微メスバウアー分光法に取り組んでいます。
輝石は化学組成が(Ca, Mg, Fe)SiO3であらわされる主要造岩鉱物です。輝石は多席固溶体で、輝石中でFeは2種類の結晶学的位置(M1席とM2席)を占めます。輝石の鉄のメスバウアースペクトルは2本(1対)のピーク(ダブレットピーク)を示します。ダブレットピークの特徴を決める4つのパラメーター(アイソマーシフト、四極子分裂幅、ピーク幅、ダブレットピーク比)は異なる席を占める鉄イオン毎にわずかに異なる値をもちます。従来、鉱物のメスバウアー分光法は、粉末状の鉱物試料で測定されてきました。粉末試料に対してはダブレットピーク比が1対1と仮定できます。一方、単結晶薄片のメスバウアースペクトルでは、ダブレットピーク比は1対1になるとは限らず、ガンマ線に対する結晶方向の違いでさまざまな値を取ります。従来のメスバウアー研究により、さまざまな鉱物の3つのメスバウアーパラメーター(アイソマーシフト、四極子分裂幅、ピーク幅)の価はよく知られていますが、単結晶試料を使った場合のダブレットピーク比の結晶方位依存性は明らかにされていません。輝石のような多席固溶体の場合、測定されたメスバウアースペクトルの解析には、生データに対してこれら4つのパラメーターで特徴づけられる最大3対のダブレットを仮定して、12のパラメーターを動かしてピーク分離して最適解を求め、各席の鉄イオンの存在比を求める必要があります。
精度良く、信頼のおけるピーク分離のためには、測定している単結晶についてはダブレットピーク比がどれくらいの値を取るはずか、を知った上で生データを解析する必要があります。そこで、化学組成が単純で、鉄が1種類のM席しか占めていない輝石の定方位薄片(結晶学的方向を決めた薄片)を作成し、結晶軸に対するガンマ線の入射方向に対してダブレットピーク比が計算できるテンソル量を実験的に決める研究に取り組んでいます。定方位薄片の作成と作成した薄片内での結晶軸の決定にはX線回折法を用いています。数種類の固溶体組成の異なる輝石の定方位薄片を用いた単結晶メスバウアースペクトルの測定から、ダブレットピーク比を決めるテンソル量の固溶体組成依存性を明らかにしつつあります。
生物化学科
見落とされてきた硫黄代謝物「超硫黄分子」の生物学的意義の解明
笠松 真吾
46億年前に原始地球が形成され、約38億年前に原始生命は誕生しました。酸素がほとんど存在していない太古の海で、原始生命はエネルギー産生に硫黄を活用していたと推定されています。私たちは最近、原核生物からヒトなどの哺乳動物を含む真核生物が、直鎖状に連結した硫黄原子を含む「超硫黄分子」を酵素的に産生し、エネルギー産生に活用していることを発見しました。これは、私たちの身体の中には太古より脈々と受け継がれてきた硫黄によるエネルギー生成機構が存在していることを示唆しています。この記事では、超硫黄分子に関する研究の新たな展開を、私たちの最近の研究成果に基づいて紹介します。
超硫黄分子(supersulfide)には、システイン(CysSH)やグルタチオン(GSH)のチオール基(SH基)に硫黄原子が過剰に付加したシステインパースルフィド(CysSSH)やグルタチオンパースルフィド(GSSH)、それらの酸化体であるシスチン(CysSSCys)やグルタチオンジスルフィド(GSSG)に硫黄原子が過剰に付加したシスチントリスルフィド(CysSSSCys)や酸化型グルタチオントリスルフィド(GSSSG)などがあることが分かっています(図1)。また、超硫黄分子はタンパク質システイン残基上にも存在し、タンパク質構造形成・維持や酵素活性制御などに寄与することが明らかにされつつあります。
図1. 超硫黄分子の多様な分子形態
図2.
A. TME-IAMによる超硫黄分子の標識・安定化効果。TME-IAMは分子内のヨードアセチル基(図中の青丸)を介して不安定な還元型超硫黄分子を標識し安定な誘導体へと変換する一方で、分子内のヒドロキシフェニル構造(図中の赤丸)を介して超硫黄分子構造の分解を抑制(安定化)する。
B. TME-IAMを用いたマウス肝臓組織解析結果。TME-IAMを用いた群でGSSH、グルタチオントリスルフィド(GSSSH)、GSSSG量が有意に高かった。このことから、TME-IAMを用いることで、生体試料中の微量な超硫黄分子の正確な検出・定量が可能であることが分かった。
CysSSHはCysSHにたった一つの硫黄原子が付加されただけですが、生体内におけるCysSSHの反応性はCysSHの100倍高いことが報告されています。超硫黄分子はその高い反応性を介して、強力な抗酸化活性を発揮する一方で、レドックス(酸化還元)シグナル制御因子として機能することが分かっています。しかし、超硫黄分子の機能や生成動態などはまだまだ不明な点が数多く残っています。
超硫黄分子に関する研究を展開する上で最大の困難は、超硫黄分子が非常に不安定な物質であるため、解析試料を調製中に容易に酸化・分解してしまうことです。私たちはごく最近、超硫黄分子の解析に最適な検出試薬N-iodoacetyl L-tyrosine methyl ester(TME-IAM)を開発し、生体内に微量に含まれる硫黄鎖長の長い超硫黄分子の正確な定量解析を可能とする検出系を構築しました(図2)。
現在、この新規検出試薬を用いて、未知の超硫黄分子の探索や新規機能の解析に取り組んでいますが、私たちヒトを含む様々な生物にはまだまだ未発見の超硫黄分子が豊富に存在し、多彩な細胞機能に寄与している可能性を示唆する結果を得ています。今後、冬眠や、アルツハイマー病などの神経変性疾患、感染・炎症病態、がんなどの新規バイオマーカーとなりうる超硫黄分子の発見を目指し、さらに解析を進めて行きます。また、超硫黄分子は原核生物から真核生物まで生物種横断的に存在することから、これらの機構・機能を比較することにより、生命の誕生や進化の歴史についても解析を行うべく、鋭意研究を進めています。