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2019年11月18日
大阪府立大学教授 堀江珠喜
(最初にお断り)昔の文化・風俗を語る上で、現代では差別用語とみなされうる言葉を敢えて使います。
〈私は、なぜ専業主婦にならなかったか?〉
「将来、結婚するつもりなら、経済的自立可能な職業に就け!」と、父から言われたのは大学生のとき。当時、フツウの親なら、娘に求めるのは「永久就職」なる「結婚」のための「寿退社」だった。 しかし父は、「今の若い男は頼りない。あんな連中に、一生、養ってもらえると思うな!」と断言。 このセリフの中の「今の若い男」とは、現代の70歳前後のオジサン世代を指す。ふふふ。いつの時代も、男性は、自分より若い同性を信じないきらいがあるようだ。
そのうえ、父は3歳で父親と死に別れ、戦前の家制度により名前だけの「本家当主」となり、犬養毅など政治家御用達の料亭経営者で女将の強い母親に育てられたため、「男に頼らない女」の姿が刷り込まれていたのだろう。(「本家」なんて、今どき吹き出したくなる言葉だが、私が20歳になると、「本家のお嬢様が成人になられた」と、「分家」からの祝が届き、戦前の亡霊を見た気持ちがした。)
さらに父いわく、 「夫が病気や怪我で働けなくなると、妻の収入が必要になる。それから慌てても遅い! 独身女性なら、金持ち男の妾になって生き残れるが、配偶者のいる立場では、そうもゆかない。だから、結婚するなら仕事を持て!」 私の親の世代までは、「別荘」、「運転手付き自家用車」、「妾」は、セレブ男性の証みたいなものだった。山崎豊子著『華麗なる一族』を読んでいただければ、おわかりいただけるだろう。
そうそう、私の神戸女学院高等学部時代、あるクラスメートを指差して、悪友が愉快そうにこう囁いたっけーー 「彼女のお兄様は慶應なのに、お父様のお妾さんの子は東大に入ったそうよ。本妻が負けたわね」 SNSも無い時代に、すごい情報網だ。 さて正直、私は父が嫌いだったが、経済的自立の話には納得し、自分にとって最も楽な職業を選んだ。それが「大学教授」である。(皆様、ごめんなさい!)
〈専業主婦の憂鬱〉
そんな父でも「男の面子」という愚かさから、自分の配偶者が外で働くことを嫌がった。 母は、私よりもはるかにエネルギッシュだったから、「専業主婦」で家庭に留まっているのが苦痛だっただろう。同居していた自分の母(私の母方の祖母)に幼い私を預けて、毎日のようにお稽古事、映画鑑賞、友とのランチなどに出かけていた。
それなら外で自分の才能が発揮できる仕事を見つけられればよかったのだが、母は「努力嫌いのお嬢様育ち」で、ハングリー精神に欠けていた。努力嫌いでハングリー精神欠如は、私も同様だが、それでも、神戸大学で学術博士号を取得し、大学教授になるまでには、ちょっとくらいの努力はした(と思う、たぶん)。
問題は、母自身、何をしたいかがわからなかったことだ。しかも生活のために働く必要がないという有り難い状況を享受しながら、それが恵まれた環境とも理解していなかった。むしろ、戦前の「お嬢様」時代に比べて、女中が雇えない生活に「貧しさ」を感じていたかもしれない。(ただし、私が生まれてからの数カ月間は、かつて自分の乳母だった女性に来てもらっていたと聞くが。)
まさに専業主婦の贅沢病だが、私は神戸女学院大学大学院修士課程在学中、米人女性教授による「女性学」っぽい文学演習では、そんなテーマの短編小説をを幾つか読んだ記憶がある。恵まれた専業主婦の「贅沢病」は、経済大国のアメリカ中流家庭で先に「発症」していたのだろう。
母は現状に満足できず、一般日本人が海外に出かけやすくなった70年代初め頃からは、海外旅行で憂さ晴らしを始めた。86歳でピンピンコロリと亡くなる半年前、つまり2006年の暮まで、旅行は続いた。まさに我が家のエリザベート様だ。総額でいくら使ったのか、私は知るのが怖い。多いときには、2カ月に3回渡航し、パスポートのページが足りなくなったこともあるほどだから。訪れた国は100を超えるようで、中国にだけでも30回以上、行った。
それでも、母は欲求不満だらけの人生を送ったと思う。「アイデンティティ」などと難しい言葉は理解できなかったはずだが、要するに、それが見つけられないまま、苛立たしく過ごしていた。母は、他人には一切、愚痴をこぼさなかったから、たぶん、彼女の辛さを理解できたのは、娘の私だけだろう。なにしろ、世間的には、母は、好き勝手のできる結構な「マダム」だったのだから。
それにしても父が66歳で病死するまで、なぜ専業主婦の母が家庭内であれほど強い立場にいられたか、私は不思議だった。稼いでくる者が、扶養家族に遠慮するなんておかしい!と。 その謎が解けたのは、父の遺産相続のときだった。なんと自宅は、新婚時代の母が、彼女の父(私の母方の祖父)から遺贈された物件だったのだ。要するに、母の所有不動産に、我々は暮らしていたわけだ。
冷静に考えれば、物価が高騰し高金利の高度成長期、フツウの新婚夫婦が、阪急神戸線夙川駅に近い、名門酒造メーカーのオーナー本家や、旧男爵の邸宅と同じブロックに、小さいとはいえ一戸建てを自力で入手できるはずもなかった。それを、努力なくして、棚ボタ式に可能にしたのは、我が母の(いや母方の祖父の)資産のおかげだったのだ。
「マスオさん」現象に近いが、もし磯野波平が亡くなっても、あの家は(持ち家だと仮定して)、サザエさん、カツオ君、ワカメちゃんと母のフネの4名で相続することになる。だが、私の母の場合、彼女の兄、姉、母と、やはり4名で分けた結果として、くだんの物件1戸が貰えたのだ。
母が強運だったのは、このように彼女の結婚3カ月後に父親が急死して、自分たちの住居にできる不動産を相続したこと、自分の所有物件ゆえに、姑との同居は拒否できたこと、私が幼い頃は、自分の母親を無料の子守りとし、私が成長すると、「親の面倒は長男が見るべき」と、介護が必要になる前に自分の兄夫婦に巧く押し付けたこと。一人娘の私が、母の望み通りに神戸女学院中学に合格したこと(当時、神戸女学院の中学から大学まで行けば、結婚市場で勝ち組になるはずだった)。そして、1988年、夫(私の父)が、癌発見から約半年で亡くなったため、「メリー・ウィドウ」となったこと。夫の看病や介護から解放されたのだ!
その際、私は、父の遺産の9割強を母に渡した。私には給与所得があるが、母の主な収入は遺族年金だからだ。(この2年前に、私は芦屋にマンションを購入していた。夫婦共同だと離婚時に面倒なので、100%、私の所有で、頭金、ローンなどすべて私が払っていた。親からの援助もなかったが、その分、口出しもさせない。借入金に無理はなく、返済に父の遺産を当てにする必要もなし。)
さらに強運の母は、父の死から2年後に、家を建て替えたので、阪神大震災では激震地にもかかわらず建物も彼女も無事だった(近所は、ほぼ全・半壊となったのに)。2005年、母は神戸港が一望できる有料老人ホームに移り、この不動産を売却したが、その価格は、おそらく今年度末に私が定年で受け取るであろう退職金の3倍ほどだった。(あーあ、働くのがバカらしくなる!)
それでも、幸せかどうかは、本人が感じるものだ。他人からは幸せそうな母は、彼女にとって物足りない人生を終えた。まあ、「ピンピンコロリ」は、母娘の双方にとってハッピーエンドと言えようが。
〈御寮人という専業主婦〉
母の母親(私の母方の祖母)は、私が知る限り、母に比べて、はるかにしとやかな女性だったが、戦前は「専業主婦」とはいえ、子供、孫も含めた大家族、複数の女中や乳母たち、書生たちを家庭内で取り仕切り、出入りの商人や客人との応対で、365日、24時間、気の休まることのない「御寮人」生活を送っていたはずだ。後年、「3食昼寝付き」と揶揄されることになる「専業主婦」像とは大違いだ。
この祖母は、自分の夫について「主人」ではなく「連れ合い」または、「うちの人」と言った。 「連れ合い」、つまりパートナーだ。19世紀に生まれた日本女性が、こんな素敵な言葉を使っていたなんて、嬉しくなる。
ちなみに母は父のことを「うちの堀江」と言うのを常としていたし、私は夫婦別姓事実婚者でもあるので、夫について「うちの田中」、「夫」、「配偶者」あるいは「同居人」、「私所有のマンションに住む他一名」と言う。死んでも「主人」なんて言うものか!(死んだら喋れないが。) 祖母の時代、「主人」という言葉を、一般の主婦が使ったか否かはわからない。地域や階層、職業によっても、大きく異なるだろう。
ひょっとしたら、祖母の場合は、次のような特殊事情があったためか? 実は、名古屋から大阪へ働きに出てきた祖父が、その才覚を認められ、勤務先のオーナー一族の娘と見合い結婚。そのおかげもあって、社長にまで出世し、松下幸之助と大阪財界で親友にもなったのだ。つまり、祖母にしてみれば、自分が「主家」、夫は元奉公人という意識が、どこかにあったかもしれない。だから夫は「主人」ではなかった?
おそらくは、その矜持ゆえに、幸之助夫人のようには、夫の妾に対し、(内心はともかく)嫉妬を顕にはしなかった。(幸之助は妾宅行きのためのアリバイ証人に、私の祖父母の名を使って夫人を騙したが、嫉妬深い夫人は、裏取りの電話を祖父母にかけてきたのだ。もちろん、祖父母は幸之助の「お遊び」に協力した。)先述のように、妾はセレブ男の証だったし、明治天皇や大正天皇だって、側室の子ではないか。谷崎潤一郎著『細雪』でも、雪子の結婚相手は華族の非嫡出子である。そういう時代だったのだ。
〈専業主婦間格差〉
さて、なんだか女3代の話が長くなったが、要するに、「専業主婦」というくくりにおいても、大いなる格差があるという、当然のことを言いたかっただけである。 にもかかわらず、現代のテレビのコメンテーターたちは、視聴者の多くを占めると思しき「主婦」の機嫌をとるべく、「専業主婦は素晴らしい」という意味の言葉で褒める。また将来、専業主婦を目指す若い女性を支持する発言も少なくない。
だが、それは無責任すぎる。 「幸せな専業主婦」生活破綻のリスクを、ちゃんと教えるべきだ。 私の父が言ったような「夫の病気や怪我」だけではなく「離婚」によって、女性の生活レベルが下がり、引き取った子供の養育費も約束通りにはもらえず、非正規雇用にしか就けず、老いても年金は僅かなどという悲劇的な話は世間に溢れているというのに。
いっぽう、離婚時に慰謝料も貰わず、子供二人を育てた優雅な女性が、私の親友にいる。初婚でも再婚でも、肩書は「専業主婦」だ。だが、彼女の父親の遺産により、東京は人気の一等地に賃貸マンションを2戸所有し、毎月の家賃収入は、私の府大からの給与を上回る。(ホント、働くのが嫌になる!) 好きなブランド品は、洋服であれ宝石であれ購入し、デラックスな海外旅行を楽しむ。まさに高級ファッション雑誌『家庭画報』のセレブ・マダム生活を実現している。
俗に「芦屋マダム」と呼ばれる専業主婦たちは、このように彼女ら自身の資産を持っている。相続が発生する前でも、生前贈与や同族会社での名ばかりの役員として「給与」や高額な株主配当金を貰う場合もあるし、夫の月収くらいの小遣いが、毎月、実家から与えられ、高価な買い物については実家が面倒をみてくれたりもする。
いくら夫がリッチでも、妻側に財力がなければ、好き放題のショッピングはできまい。高級車一台分、あるいはちょっとしたマンション一戸分が、指輪ひとつの値段なんて。 「パパ(夫)が米国で手術したとき、ロールスロイス一台分の費用(推定6千万円)がかかったらしいけれど、いいのよ、パパのオカネだから。私の財布からじゃないもの」と、平然としていられるのが、正統派「芦屋マダム」なのだ。
もちろん、こんなに恵まれた女性は、超マイノリティだが、しかし現実に存在する。 若い女性が、このような「専業主婦」に「幻想」を抱き、ほどなく「幻滅」段階で気がつき、早いうちに舵を切り替えればいいが、ぐずぐずと夢を追っているうちに極貧という「破滅」に至りはしないか心配する。
幸い、私は65年間、皆様方のおかげで、どうにか生きてきた。 退職したらどうするの?とよく尋ねられるが、特に考えていない。 最近、これまでしなかった「料理」が面白いと思うようになった。時間も手間もオカネもかけない私流だ。ドクターX並の速さで「私、失敗しないので」と心の中で豪語する創作を用意し、友人や昔の教え子たちを招いてのホームパーティが楽しい。「家庭の味」のプロたる専業主婦に、調理法を尋ねられることもある。 もうすぐ年金プア・ライフが始まるが、まあ、この程度の社交なら続けられるだろう。強運の母のDNAもあることだし。
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