ボールが壁をすり抜ける!? 摩訶不思議な量子力学の世界
「『量子コンピュータとは何ですか』という質問に、ひとことで答えるのは実はとても難しい。なぜなら量子コンピュータを自動車に例えるなら、まだ『模型のミニカーを作ってみた』ぐらいの段階だからです」
杉﨑先生は、そのように語ります。ガソリンエンジンで動く自動車は発明されてから150年以上が経ち、すでにその技術は確立しています。それに比べて現時点の量子コンピュータは、動作原理も確立しておらず、また操作方法やアルゴリズムについても「まだ研究の入り口に立ったばかり」といいます。
「最大公約数的に定義するならば、量子コンピュータとは『量子力学原理に従って動作するコンピュータ』であると言えるでしょう。そうすると次に『量子力学とはなんぞや』という話に移るわけですが、この量子力学をきちんと理解するのは非常に難しい。量子力学の第一人者でノーベル賞を受賞したリチャード・P・ファインマン教授も『もしも量子力学を理解できたと思ったならば……それは量子力学を理解できていない証拠だ』という言葉を残しているほどです」
そう言って笑う杉﨑先生は、「それでも大雑把に量子力学を説明すると」と続けます。
「我々人間は目で認識できるマクロな世界で生きています。ところが顕微鏡の倍率をどんどん上げて、原子や分子、電子レベルのミクロの世界になると、私たちが日常生活で当たり前に経験している物理法則や物理現象とは、まったく違う別の原理が働いていることが発見されたのです。そのミクロの世界の力学が、量子力学です。量子力学は何人もの天才物理学者たちが構築してきた理論体系で、その正しさが実験で確かめられてきました」
量子力学の概念の代表的な例としてしばしば挙げられるのが、「壁にボールを投げたら」という例えです。マクロの世界で壁にボールを投げれば、壁にぶつかったボールは跳ね返ってきます。ところが、量子力学の世界では「壁に向かって投げたボールは、壁の向こうにすり抜けてしまうことがある」といいます。
「そのボールというのが『量子』に分類される電子や光子になります。電子や光子は、現代物理学では『粒でもあり、波でもある』性質を同時に持っていると考えられています。そのことは、1961年に行われた有名な『二重スリット実験』と呼ばれる実験で確かめられました」
「二重スリット実験」では、<イメージ1>のイラストのように電子を1粒ずつ壁に向かって発射します。壁には縦に2列、隙間が空いており、その隙間を通り抜けた電子は奥の壁に当たって痕跡を残すようになっています。電子が粒子であれば、奥の壁には隙間の2列の形に痕跡が残るはずです。
ところがこの実験では、2列だけでなく、「干渉縞」<イメージ2>と呼ばれる何本もの痕跡が現れました。
<イメージ1>
<イメージ2>
「干渉縞は、電子が波の性質を持っていることを示しています。電子一粒は、我々がイメージする小石などの粒のように『ある地点に確定的に存在する』とは言えないのです。『二重スリット実験』は、電子が『右側の隙間を通った状態と、左側の隙間を通った状態が同時に存在し(これを量子重ね合わせ状態といいます)、この2つの状態が干渉を起こす』ことを証明しました。この量子の世界の力学に従って動くコンピュータを作ると、通常のコンピュータでは何千年もかかる計算が、一瞬で解けてしまう可能性があるのです」
従来型コンピュータと根本的に異なる量子コンピュータの動作原理
なぜ粒子が「複数の状態を同時に表現できる『量子重ね合わせ状態』をとることができる」という性質が、コンピュータの計算を圧倒的に速めるのでしょうか。それは、従来のコンピュータの原理と比較することで理解できます。従来のコンピュータは半導体素子の上を流れる電流が一定の閾値を超えれば「1」、超えなければ「0」と見なし、1と0の2進数で計算を行っています。それに対して量子コンピュータは、「0と1」が重ね合わさった状態を利用して計算を行うことができるからです。
「重ね合わせ」による計算を理解するために、例えば10桁の2進数の組み合わせでできた、次のような「パスワード」があったとしましょう。
0110001101(正解のパスワード)
この正解を知らない人が、コンピュータを使ってパスワードを探索するとします。1つの桁には必ず「0」か「1」が入りますので、この10桁のパスワードの組み合わせは、2の10乗、すなわち1024通りあることになります。従来のコンピュータを用いてこのパスワードを解こうとすると、1024通りを順番に試すしかありません。運良く少ない回数で正解にたどり着けるかもしれませんが、1000回以上計算しても正解しない可能性があります。
ところが、量子コンピュータの場合は、「0」と「1」がそれぞれの桁で同時に存在します。それゆえ原理的に、たった「1回」の計算で正解にたどり着くことが可能なのです。
上記の例にあげた「0」「1」が入る桁を、コンピュータでは「ビット」という単位で表し、量子コンピュータでは「量子ビット」と呼んでいます。上記の例では10桁なので10量子ビットですが、ビット数が上がれば上がるほど、量子コンピュータと従来型コンピュータの計算性能は大きく開いていくことになります。実際にこの性質を利用してグーグルが2019年に開発した量子コンピュータは、当時世界最速のスパコン「Summit」を用いても1万年かかるとされた計算を、わずか200秒で完了したと発表され、世界中の研究者に衝撃を与えました。
将来多くの分野で量子コンピュータの活用が期待されると杉﨑先生は語る
「そうした量子コンピュータの持つ驚異の可能性から、いま、多くの分野で将来の活用が期待されています。一つは情報通信分野です。AIのようなビッグデータの解析にもとづくシステムの性能が圧倒的に高まるだろうと言われています。もう一つは、材料開発や創薬への活用です。新型コロナウイルス感染症の治療では、ウイルスが持っているスパイク蛋白という部分にある化合物をくっつけることで、発症を防ぐワクチンが開発されました。そうした特殊な薬に使われる化合物の候補物質は何万種類もあり、そのなかから最適な化合物を見つける必要があります。量子コンピュータはそうした候補物質の分子物性を正確に予測するのに、多大な力を発揮すると考えられています」と杉﨑先生は話します。
情報通信の分野では、量子の特性を生かした「量子暗号」という仕組みを応用し、絶対に第三者が盗聴できない通信も研究されています。量子には『観察したことで状態が決まる』という特性があります。この特性も、「二重スリット実験」を発展させた実験によって確かめられました。量子は、「誰も観察していないときは波のように振る舞い(位置が特定できない)、観察した途端に粒子のように振る舞う(位置が特定できる)」ことがわかったのです。これは「観察者効果」と呼ばれ、観察にともなって発生する光子や原子の運動が量子に影響を与えることが原因と考えられています。この特性を活かして暗号を設計すると、盗聴者が途中で絶対に解読できない通信ができます。あらかじめ暗号の送信者と受信者は、暗号化して送ったメッセージとともに、その暗号を解くための「鍵」を量子情報に変換して送ります。量子情報になった鍵は、盗聴された瞬間に変化してしまうので、原理的に盗聴が不可能になるのです。
「現在のインターネットで使われている暗号は、原理的にはいまのコンピュータでも何万年もかければ解くことができます。もし量子コンピュータが実現したら、現状の暗号通信は簡単に解くことができてしまいかねません。それに対し量子暗号は絶対に他人は解くことができないことから、注目が集まっているのです」
量子コンピュータの現状の課題
量子コンピュータが従来型のコンピュータと比べて優れている点は、計算スピードだけではありません。使用に必要なエネルギーやランニングコストの面でも圧倒的な効率化がもたらされる可能性があるのです。
「ふつうの半導体を用いてデジタル計算を行うコンピュータは、演算をする度に電力が必要となります。計算に用いられた電力のほぼすべてが熱になるので、計算が複雑になればなるほど素子は高温になり、それを冷やすのにも莫大なエネルギーが必要になります。それに対して量子コンピュータは、先に述べたように計算回数が劇的に少なくなるため、計算そのものにかかるエネルギーも非常に少ないのです。ただし今、グーグルなどが開発している量子コンピュータは、電気抵抗がゼロになる超電導の状態で動かします。超電導状態を維持するためにはマイナス250度より低い環境を作る必要があり、膨大な電力が消費されます。量子コンピュータの運用コストがどうなるかは、これからの技術開発にかかっています」
量子コンピュータはグーグルやIBMなどの企業、世界中の大学や研究機関で、さまざまな方式が探求されています。量子に何を使うかについても、電子、光子、イオンのどれをビットに使用するかによって回路構成が大きく異なってくるそうです。ただし実用化まで持っていくには、「量子コンピュータ特有のエラーの多さを改善する方法を開発する必要がある」と杉﨑先生は言います。
「半導体のコンピュータは、デジタルの0か1で計算しています。電球のオン・オフのようにはっきりしているので、回路でエラーがほとんど発生しません。それに対して量子ビットは先程述べたように0と1が重ね合わせの状態にあり、『0が60%、1が40%』のようなグラデーションで計算を行っているので、どうしてもエラーが発生するのです。
しかし、『0と1がどのような重ね合わせ状態にあるか』という情報を、複数の量子ビットを使って保持することでこのようなエラーは検出・訂正が可能なことが知られているので、そのための研究が進められています」
今から15年程で量子コンピュータが実用化される可能性がある
ここまでのお話で、量子コンピュータが非常に大きな可能性を秘めていることがわかりました。しかし、どれだけ可能性が大きくても、実用化されるのが100年、200年先だとしたら、今生きている私たちの生活にはあまり影響を及ぼしません。それに対して、杉﨑先生は「量子コンピュータの実用は、10年以内に始まると予想されています」と語ります。
「日本の理論化学会という学会が、2年ほど前に、『将来、理論化学の分野でどんなブレークスルーが起こるか』という『夢のアンケート』をとりました。各分野の専門家がさまざまな分野の予測を行ったのですが、量子コンピュータの化学分野への応用での計算加速の実証実験は、(おそらくグーグルなどのハードウェアを開発しているグループによって)2029年頃に行われるだろうと予想されています。その後、2030年代の終わりぐらいには材料開発などで実用されるようになり、今のスーパーコンピュータと同じく研究機関や大学などに設置されるようになると考えられます」
そんな未来に向けて、杉﨑先生はいま、量子コンピュータを用いて化学計算をするための「量子アルゴリズム」の開発を研究テーマとしています。
「量子コンピュータの応用先として、創薬・材料開発が有望と述べましたが、私が取り組んでいるのはそのための基礎研究です。物質の物性は、分子の中の電子の動きに支配されています。電子は量子力学で動いているので、量子コンピュータと物質の物性を求める化学計算は、とても相性が良いのです。ある分子の構造が、何か外からエネルギーが与えられたとき、どのように変化し、安定化もしくは不安定化するか。それを計算するのが量子化学計算で、そのためのアルゴリズムを開発しています」
量子コンピュータの実用化の見込みが2030年代の終わりというと、2023年現在から15年ほど先の未来です。たったそれぐらいで、「夢の計算機」が実用化される可能性があることに、驚く人は多いのではないでしょうか。
「でもよく考えてみれば、スマホが発明されたのは2007年のことですが、そこからあっという間に普及して、今では私たちの生活に無くてはならないものとなっています。インターネットが一般に利用され始めたのは30年前のことですが、ネットなしの生活はもはや考えられません。そう考えると、今年に生まれた子どもが大学を出て就職する頃には、量子コンピュータが普通に会社で使われていてもぜんぜん不思議ではないのです」
最後に、杉﨑先生は子どもの頃の思い出話をしてくれました。
「私が子どもの頃、テレビゲーム機の初代ファミコンがブームで、兄とよく遊んでいました。そのとき私は兄に、『このゲーム、将来、話すようになると思う』と伝えたことを覚えています。兄は『そんな夢みたいなことあるわけない』と言っていましたが、あっという間にゲームの中で人間の言葉を聞くことは珍しいことではなくなりました。一台で映画も見れて音楽も聞けて通信もできるスマホを、もしも昭和の時代の人が見たら、ドラえもんの道具そのものだと思うはずです。そう考えれば量子コンピュータも、もはや『夢の機械』ではないのです」
この30年の間に起きた、コンピュータやインターネットの目覚ましい発展は、私たちの社会を大きく変え、暮らしをより豊かに、便利にしてくれました。あと15年ほどでその形が見えてくる量子コンピュータの発展が、社会をどのように変えてくれるか、楽しみに待っていたいと思います。
プロフィール
理学研究科 特任講師
1980年、奈良県生まれ。2006年、大阪市立大学大学院理学研究科後期博士課程修了。国立研究開発法人科学技術振興機構 さきがけ専任研究者。量子コンピュータ上で量子化学計算を効率的に実行するための新規量子アルゴリズム開発、開殻分子の電子構造の理論的解明、ゼロ磁場分裂などスピンハミルトニアンパラメータの量子化学計算などの研究に取り組む。著書に『量子コンピュータによる量子化学計算入門』がある。
※所属は掲載当時