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「犬の体の負担を軽減できれば」という思いから始まったチャレンジ

細胞を生みだす元となる幹細胞のうち、体を構成するほとんどすべての細胞に分化できる幹細胞を多能性幹細胞といいます。iPS細胞もその一種。すでに分化してしまった細胞に手を加え、いろいろな細胞へと変わる前の未分化な状態に戻したもので、人工多能性幹細胞とも呼ばれています。

「幹細胞を活用した治療は、近年では人を対象としたものだけでなく、犬や猫を対象にした獣医療でもよく行われています。とはいえ、免疫調整機能を整えるために体の中にある幹細胞をそのまま投与するといった形であって、多能性幹細胞が使用されているわけではありません。しかし最近は、iPS細胞などを活用した再生医療によって、今まで治らなかった病気を治療できないかと研究されている獣医師の先生方が多くいらっしゃいます」

犬のiPS細胞の研究も実は随分前から進められており、切除した皮膚の線維芽細胞などからの作製には成功していたとのこと。しかし元となる細胞を入手するには、大きなハードルがあったといいます。

「麻酔をかけて皮膚の切除を行うため、犬に余計な負担をかけてしまいます。研究のために苦痛を与えてしまうなんて本当に良くないことです。また犬にも多様性があるのに、特定の犬種の細胞からのみiPS細胞を作っていては、研究にも限界があります。また、ある遺伝子疾患を持つワンちゃんから病態を解明するためにiPS細胞を作ろうにも、病気のワンちゃんに麻酔をかけて皮膚を切り取るのは動物にも飼い主にも負担が大きすぎます。もし血液細胞からiPS細胞が作れるようになれば、検査時の血液の一部を分けてもらえば良いですし、飼い主さんも納得して細胞提供をしてくださるはず。そう考え、血液細胞からiPS細胞を作る研究を進めていきました」

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試行錯誤を重ね、高い確率で血液細胞を未分化な状態へ戻すことに成功

すでに線維芽細胞からイヌiPS細胞が作製できていたとはいえ、今なおその成功率は満足いくものではないのだと、鳩谷先生は説明します。ましてや犬の血液細胞からiPS細胞を作ることは、これまで獣医学界では困難だとされていました。そんな難題に、鳩谷先生はどのように挑んだのでしょうか。

iPS細胞を作るには、細胞を初期化…つまり分化した状態から未分化な状態に戻さなければいけません。ノーベル賞をとられた山中先生は、『山中4因子』と呼ばれる4つの遺伝子を導入することで、細胞が初期化することを示してくださいました。これを犬の線維芽細胞にも導入したところ、効率は悪いながらも作製はできたのです。しかし血液細胞に導入してみても、全くうまくいきません。山中4因子を導入するだけでは足りないと考え、試行錯誤を繰り返しました」

獣医学は、人を対象とした医学よりも研究者人口が少なく、研究テーマによっては参考にできる先行事例がない場合もあります。血液細胞からのiPS細胞作製についても同様で、先進している人やマウスの研究手法を参考にしながら試みるしかありませんでしたが、やはり同じようにはできなかったといいます。

「細胞を培養するための培地、つまりiPS細胞の生育環境すら人とマウスとでは違います。犬の場合、マウスよりは人に近い環境のほうが良いと、かなり長い時間を要してわかりましたが、同じ条件にしてもうまくいきませんでした」

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実に10年以上の年月をかけてもなかなか成功には至りませんでしたが、そんな先生の支えになったのが、学生たちの存在です。現役の獣医師として併設の獣医臨床センターで診察を続けている鳩谷先生の研究室には、犬や猫を対象とした臨床や研究を希望する学生が毎年入ってきます。診察も研究も力を合わせて取り組み続けましたが、とても多忙で大変だったと振り返ります。

「それでも熱心に頑張ってくれた学生たちの意欲があったからこそ、僕のモチベーションも高く保てました。時が経つにつれ、ヒトiPS細胞の研究も進んでいき、イヌiPS細胞でも参考にできる情報が増えていきます。さまざまな手法を試してみたところ、ある状態で低分子化合物というものを複数加えて混ぜると、より初期化が促進され、高い確率でイヌiPS細胞を作れることがわかったのです。一人で進めていたら、途中で諦めていたと思います。研究が進んだのは、助けてくださった多くの先生方や、一緒に研究してきた学生の情熱が強かったおかげです」

さまざまな細胞へと分化させることで、再生医療や輸血にも活用できる

やっとの思いで成功した犬の血液細胞からの犬iPS細胞作製。より犬への負担が少なく作製できるようになったことで、今後どのようなことが期待されるのでしょうか。

「まずは、獣医学分野における再生医療の促進です。国内外の研究施設から、作製したイヌiPS細胞の提供依頼をもらっており、本学と契約を交わした上で研究に活用してもらう取り組みを始めています。次に、輸血するための血液を作る研究です。人でも足りないと言われていますが、犬や猫はもっと足りません。なんせ彼らは自分から献血に来てくれませんからね」

たとえば腫瘍の手術は輸血が必要になるケースも多いのですが、その量が足りず、手術が継続できないなど厳しい状態になることも少なくないといいます。しかしイヌiPS細胞から赤血球を作れれば、その状況が大きく改善されるはずです。

「イヌiPS細胞を赤血球の前段階の細胞にまで分化させることには成功していて、先日、うちの研究室の大学院生が学会で発表してくれました。実は昔、診察した白血病の大型犬に対し、途中で治療を諦めざるを得なかったことがあったんです。その犬は白血病で血液を作る働きが低下して重度の貧血を呈していました。抗がん剤投与で治療したのですが、症状が落ち着かないうちに貧血が進行して、輸血用の血液が尽きてしまって…。血液がもっとあれば治療が続けられたのではないか。あのときの後悔が、iPS細胞から赤血球を作れないかという研究にもつながっています」

獣医療の臨床研究から得た知見を、人の医療にも反映させるのが最終目標

さまざまな犬種、さらに患者犬からもイヌiPS 細胞を作製しやすいのが、血液細胞を使うメリットです。血液検査で得られたサンプルから簡単に作れるため、多くの犬からiPS細胞を作れるようになり、それによって病態解明や治療法の細胞レベルでの解析が進んでいくだろうと鳩谷先生は語ります。

「遺伝子疾患の研究や再生医療に活用できるのはもちろん、疾患のモデル化や創薬など、さまざまな動物医療に貢献できると考えています。また、かなり数は減ってはいますが、実験動物として利用される動物を減らすことにもつながります。これは獣医学分野だけでなく、実験動物を使用する多くの研究分野にも重要なことだと考えています」

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血液細胞からイヌiPS 細胞を作製するという目標を達成した今、鳩谷先生は次に何を見据え、研究に取り組んでいくのでしょうか。

「イヌiPS細胞については、もっと安定的に培養できる条件を見いだしていき、培養の効率や精度を高めていきたいです。また、猫のiPS 細胞を作製する研究も並行して進めていますので、その確立も大きなテーマです。年をとった猫はかなりの割合で、慢性腎臓病に苦しんでいます。近年、人では、ES細胞やiPS細胞を使ってオルガノイドというミニ臓器を作る研究が盛んになってきています。この技術を使って猫の小さな腎臓を作ることができれば、なぜ慢性腎臓病になるのかといった病気の解明にも活用できるはず。その一助となれるように研究を進めていきたいです。さらに、研究室の大学院生が猫のiPS細胞やES細胞から精子や卵子を作って体外受精させ、絶滅危惧種の繁殖に応用できないかという研究を進めています。動物の個体を移動させることは困難ですが、精子や卵子であれば輸送もたやすいので、ワールドワイドに受精させれば、遺伝子の多様性を保った種の保全にもつながるはずです」

鳩谷先生は、「私たちの研究が、人の医療にも良い影響をもたらすようにしたい」とも語ります。犬や猫のiPS細胞の研究が進むことによって、人に役立つことも考えられるのでしょうか。

「人と同じように過ごしてきた犬や猫は慢性疾患がとても多く、人にある病気は犬や猫にもだいたいあるのでは、というくらい共通する病気がたくさんあります。私の最終目標は、獣医療から得た知見を人にも反映させることです。今のところは先進している人の研究を参考にしている状態ですが、どんどん研究を進めていって、人と動物の共通点、違う点を比較できればいいなと考えています」

長い年月をかけて大きな成果を生みだした、鳩谷先生たちの研究。これからさらに、犬だけでなく、動物、そして私たちの健康にも貢献してくれるであろうことに、大きな期待が寄せられます。

プロフィール

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獣医学研究科 教授
鳩谷 晋吾

獣医学研究科 獣医学専攻 教授

博士(獣医学)。専門は、獣医再生医療。大阪府立大学大学院生命環境科学研究科 獣医学専攻の助教、准教授を経て、2022年より現職。主な研究テーマは、イヌおよびネコiPS細胞を用いた再生医療研究、ネコ体外受精方法の確立およびES細胞株の樹立、間葉系幹細胞を用いた難治性内科疾患の治療など。犬の血液細胞からイヌiPS細胞の作製に成功し、その成果が20211月、細胞生物学系の学術雑誌『Stem Cells and Development』に掲載された。

研究者詳細

※所属は掲載当時

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