❝語り物❞が人形を操る芸と合体して誕生
文楽とは、人形浄瑠璃とも呼ばれる芸能ジャンルの一つです。浄瑠璃とは、ストーリーのある物語を、楽器の演奏とともに節をつけて語る“語り物”と呼ばれる芸能の一つで、琵琶などの伴奏による語り物として室町時代に生まれました。浄瑠璃という名前は、この芸能の起源となった牛若丸と浄瑠璃姫の恋物語に由来しています。
江戸時代に入るころ、浄瑠璃は三味線の演奏とセットになり、また、古代からいろいろな形で存在していた人形を操る芸と合体し、人形浄瑠璃が生まれました。発祥の地は京都。そこから当時の大都市である大阪や江戸へと広まり、庶民の芸能として発展し、江戸時代は操り芝居や浄瑠璃芝居などと呼ばれていました。
江戸時代の前期、1600年代の後半に、人形浄瑠璃にエポックメイキングともいえる出来事が起こります。久堀先生は次のように話します。
「最初はいろんな人が独自の節で語っていたんですが、やがて大阪に、竹本義太夫というすごく才能のある人が出てくるんです。この人が語る義太夫節は非常に人気がでて、その流派が浄瑠璃の主流になり、それまでの浄瑠璃は廃れてしまいました。義太夫はよく声が出て音域も広く、物語の意味が非常によくわかるような語りだったと伝わっています」
また、もう一人の天才の登場も、人形浄瑠璃を大人気コンテンツに押し上げた大きな要因でした。
「浄瑠璃作者として、近松門左衛門が頭角を現しました。もともと京都で浄瑠璃や歌舞伎作者として活動していたのですが、大阪に移ってきたんです。近松の作品はドラマとして非常に優れたものでした。竹本義太夫と近松門左衛門の提携によって、大阪を拠点とする人形浄瑠璃が発展します」
人形浄瑠璃の歴史について語る久堀先生
文楽は、江戸時代の後半に大阪で名をなした興行主、正井文楽軒(明治以降、植村に改姓)にちなんだ名前です。難波神社の境内で行っていた人形浄瑠璃が“文楽の芝居”と呼ばれ、人気を集めました。明治時代には文楽座と名乗るようになり、大正時代には大阪で唯一の人形浄瑠璃の劇場となりました。そこからは、文楽という名称が人形浄瑠璃というジャンルの代名詞のようになりました。
では、人形浄瑠璃のどのような物語が当時の人々の心をつかんだのでしょうか。
「そもそも語り物は、昔から伝えられている物語を語るものでした。浄瑠璃も過去に起こったこと、歴史とか伝説とかを題材にしたものが中心でした。それが、江戸時代になり劇場で観客の前で上演するようになったころからは、次第に物語にフィクションが加えられていくようになります。史実の大枠はそのままに、例えば歴史の裏側では実はこんなことが行われていたという展開を加えた形で創作されるようになりました」
脚色によって歴史上の人物がいきいきと動き出し、史実がわくわくするような物語へと展開したのが人形浄瑠璃というわけです。現代の大河ドラマなどの面白さを思い浮かべると、当時の人々の評判を呼んだのもわかるような気がします。
「それらは『時代物』と呼ばれましたが、もう一つ新たなジャンルとして『世話物』も生まれました。世話物は、主に町人の世界で実際に起こった出来事や事件を題材にした作品で、歌舞伎の影響を受けて成立しました。心中や殺人などの事件が起こったらすぐ作劇・上演されることもありました」
文楽『恋女房染分手綱』重の井子別れの段の上演風景(上方文化講座)
世話物は、現代の週刊誌やネットニュースのような、ゴシップ的な興味にも応えるものだったようです。「ただ時代物も、フィクションの部分には観客である当時の人々の考え方や暮らしが反映されていました。その意味では、両方とも江戸時代の人々の姿が描き出されている当時の現代劇と言えますね」と久堀先生は話します。当時の庶民にとっては、まさに“自分たちのためのもの”と実感できるようなエンターテインメントだったのでしょう。
久堀先生は、人形浄瑠璃の作劇について次のように話します。
「江戸時代に生まれた演劇には、人形浄瑠璃のほかに歌舞伎があり、互いに影響を与えながら歴史をつくってきました。歌舞伎は役者が作り上げていくのに対して、人形浄瑠璃はまず戯曲自体がしっかり練られました。人形浄瑠璃では、新しい作品が上演されて1カ月ほど経つと浄瑠璃本(台本)が出版されて、そこには作者の署名が入るため、おのずと力作になるということもあったでしょう。特に近松の頃からは、ドラマとしてよくできた質の高いものになりました」
人形浄瑠璃の舞台になる世界についても続けて話します。
「江戸時代というのは、現代に比べると人と人とのつながりが密でした。主従関係や町人社会のしきたりなど関係性の制約に縛られた中で生まれる葛藤とか苦しみ、あるいは思いやりや愛情を、生きるか死ぬかみたいな究極の形で見せてくれるところに、人形浄瑠璃が多くの人に受け入れられた秘密があると思います。制約の大きな時代の人々の生き方を描くのに、操られて動く人形が合っていたということも言えるかもしれません」
江戸時代に出版された浄瑠璃本。広く流布したことで、
浄瑠璃や義太夫節が人々の間に浸透した
明治時代に作られた錦絵。『鶊山古跡松(ひばりやまこせきのまつ)』の
上演場面が描かれている
❝三業一体❞でつくりあげる物語の奥深さ
「物語を人形と浄瑠璃で表現するというのも、世界的には珍しい様式」と久堀先生は話します。
人形浄瑠璃の演者は、太夫、三味線、人形遣いの三者。浄瑠璃については、語りを行う太夫が主で三味線は伴奏と思いがちですが、実は三味線の役割は伴奏だけではないそう。久堀先生は「情景の描写や登場人物の心情を三味線の音や間で表現しています。太夫と三味線は一緒に浄瑠璃の語りをつくっているんです」と教えてくれました。
人形遣いは人形の演技を担当します。近松の時代は一人で操っていましたが、繊細な動きを表現したいというニーズから、1700年代の前半から半ばにかけて三人で操る三人遣いが定着し、現代まで受け継がれています。頭と右手を操る主遣い(おもづかい)、左手を操作する左遣い、足を操作する足遣いのうち、主遣いが三人のリーダーの役割を果たします。
三人遣いの人形の高い表現力について語る桐竹勘十郎さん
桐竹勘十郎さんは、一人遣いから三人遣いになって大きく変わったのは、「足の動きがついたこと」だと考えています。十代の修業時代、黒衣(くろご)として舞台上のさまざまな雑用をこなす中で、目の前で器用に動く足が印象的だったそうです。「あんな生きてるように足を動かせたら面白いやろな」と興味をひかれたのが、人形遣いに魅力を感じた最初だったと言います。
人形の“人間にはできない動き”に注目するのは久堀先生です。
「たとえば、嫉妬に狂う娘の演技でも、髪の毛をさばいてかき乱し狂乱する姿は本当にダイナミックです。人間の骨格では実際にはできないような誇張された動きをすることもよくありますが、それが不思議と不自然ではなく感情を非常によく表現しているんです。その感じは、ちょっとアニメーションに似ているかもしれませんね」
しかし、このような人形の非常に高い表現力は、人形遣いだけで生み出しているのではないと勘十郎さんは話します。「人形を生かすも殺すも浄瑠璃次第。浄瑠璃が人形にエネルギーやパワーを与え、極限まで高めてくれる」そうです。
浄瑠璃には登場人物のセリフだけでなく、状況や心情を説明する地の文もあります。セリフが普通の会話のように始まったかと思うと、途中で三味線のメロディが入り徐々に歌のようになっていくこともあります。いろんな要素が混然一体となっているところが、オペラやミュージカルとは違う特徴です。
浄瑠璃という複雑な要素を統合した独特の形態でストーリーを膨らませ、情景や心情を細やかに描く太夫と三味線、その浄瑠璃を原動力に生きた人間以上になまなましく演じる人形遣いの三者が息を合わせ、一つの舞台を作りあげる。これが「三業一体」と呼ばれる、人形浄瑠璃ならではの魅力のようです。
時間をかけたものは簡単には飽きられない
文楽が長い間、人々に愛されるコンテンツとして生き続けているのは、どのような理由があるのでしょうか。勘十郎さんは、人形浄瑠璃には時代や登場人物に関係なく「どなたが見ても、『あーなるほど』『そやそや』と共感できる部分がたくさんあるから」ではないかと話します。それを、心をぐっとつかむような物語として組み立てている作者の力に感嘆するそうです。
「今まで残っている、文楽の宝みたいな作品がたくさんありますけど、それらはやはりよくできています。初演でいきなりそうなったのではなく、いろんな人がああでもないこうでもないと、少しずつ形にしていって今残っています。時間をかけてやっとできたものだから、簡単には崩れないし、飽きられない。それが、時間をかけた値打ちだと思います」
10年、20年でもひよっこで、30年、40年やってようやくいい役がもらえるというほど厳しい文楽の世界。学生時代に文楽と出会い、のめり込んで研究を始めた久堀先生は「熟練の芸の素晴らしさは、何回も観るうちにだんだんとわかるようになっていく」と話します。観客も一緒に成長できるところも魅力の一つなのでしょう。
次の世代に文楽を残すため、演者さんたちは何を大切にしているのでしょうか。「無形のものですので、よっぽど気をつけていても変わったり崩れたりします。果たしてちゃんと受け継ぐことができているのか、いつも自分に問いかけています」と言う勘十郎さん。人間国宝の勘十郎さんでもまだ自分の芸に満足していない、このストイックさが伝統を支えるのだと改めて教えてもらった気がします。
また、形を崩さずに伝えていくこととは別に、もう一つ“文楽のにおい”を守ることが大事だと話します。
「東京で文楽を上演する国立劇場は建て替えられることになっていて、新劇場では舞台の機構も変わるでしょう。決して悪いことはではありませんが、それによって昔ながらのにおいが消えていくところはあります。文楽は、非常に条件の悪いところで育ってきた芸能です。劇場の音響がよくなれば、太夫の声もそれほど大きくなくてもいいかもしれない。そのようなある種の洗練によって、昔の文楽でなくなっていく可能性もあります。においを守るのは大変難しいことではありますが、意識していきたいと思っています」
幕が開いたらそこは別世界。身も心もゆだねて
“文楽のにおい”を味わうためにも「ぜひ、劇場に足を運んでほしい」と勘十郎さん。「生の舞台には映像からは感じられないものがある」と力説します。久堀先生も「太夫の声の大きさとか、初めて舞台を観るときっと驚きますよ。そういうのを含めて、臨場感が違います」と同意します。太夫の語り、三味線の音色や鳴り物の音、人形の演技、大道具の転換など、人形浄瑠璃の舞台から自分の好きなところを自由に探ってみてほしいとお二人は想いを口にします。
ただ、浄瑠璃の言葉が難しくて理解できず楽しめないのではと思う人もいるかもしれません。そんな不安を持つ方に向けて、勘十郎さんからアドバイスをいただきました。
「確かに浄瑠璃の文章は難しい言葉もありますから、わからんこともあるかもしれません。でも、伝統芸能だからと構えることはないんです。人形がお芝居をしますので喜怒哀楽はなんとなくわかるはずです。もし眠たくなったら寝て少し休憩して、また起きたところから楽しんでください(笑)。客席に座って幕が開いたら、もうそこは現代ではありません。身も心もゆだねて、私たちと一緒に違う世界に行くような気持ちで観ていただけたらうれしいですね」
文楽は伝統芸能ではありますが、昔から庶民に親しまれてきたエンターテインメントであることは事実です。初めてでわからないことがあったとしても、それは大したことではないのかもしれません。先入観に縛られて触れてみないのはもったいない。気楽な気持ちで、ぜひ一度、劇場へ足を運んでみてはいかがでしょうか。
プロフィール
1967年三代吉田簑助に師事、吉田簑太郎と名乗る。翌年初舞台。2003年三代桐竹勘十郎襲名。2021年重要無形文化財保持者認定。咲くやこの花賞、因協会賞、芸術選奨文部科学大臣賞、国立劇場文楽賞文楽大賞、紫綬褒章、日本芸術院賞、大阪市市民表彰、毎日芸術賞、伝統文化ポーラ賞優秀賞、国立劇場文楽賞文楽優秀賞など受賞多数。
2022年、大阪公立大学 特別客員教授に就任。
※所属は掲載当時
プロフィール
京都大学大学院文学研究科文献文化学専攻国語学国文学専修博士後期課程単位修得退学。博士(文学)・京都大学。大阪外国語大学助教授、大阪市立大学准教授を経て、2017年より現職。日本近世文学、近世演劇(文楽、人形浄瑠璃)を研究。著書に『上方文化講座 義経千本桜』(共編著・和泉書院・2013年8月)、『大学的大阪ガイド』(分担執筆・昭和堂・2022年4月)など。
※所属は掲載当時