見方を変えると、違った風景が見えてくる
映画館で感動的な映画を見たときのことを思い出してみてください。映画が終わって外に出てみると、いつも見ているはずの街の風景が違って見えたこと、きっと誰にでもあると思います。
ある人にとってそれは、映画の中の痛快なヒーローに自分を重ね、その達成感を味わったことで、日頃の悩みが吹き飛んだ瞬間かもしれません。またある人にとっては、その映画が自分の人生における根源的な悩みや願いを、少し揺さぶったのでしょう。そうして当たり前だと思っていた現実が、映画を見る前と後で、まったく変わったものに見えてしまう――。
ハナムラ先生の研究は、私たちが当たり前のものとして見ている現実を「まなざし」から解剖し、現実そのものを変えてしまう“仕掛け”をデザインするというものです。
『Seeing Differently』
「この映像作品は、オーバーツーリズムにおけるマナー啓発をテーマに制作を依頼されました。でもマナーって、実は表面的な行動の違いよりも、その行動の裏側にある意識の違いの方が本質的な問題ではないかと考えました。たとえば、いわゆる地元の人は、観光客の振る舞いを、ほぼ自動的に非難します。しかし当の観光客は、地元の当たり前が分からない状態なので、そもそも悪気があって振る舞っているわけではない。お互いに見えている風景がまったく違うわけです」とハナムラ先生は話します。
映像作品『Seeing Differently』が問題にしているのは、私たちが「地元の人」と「観光客」という相容れない立ち位置からしかお互いを見られていないということです。ハナムラ先生は、こうしたことが起きる仕組みを、「風景」と「距離」の関係で説明します。私たちが当たり前と感じているものは、見ている自分と、見られている風景との距離がゼロになり、いわば同化している状態なのだといいます。いわゆる地元目線に同化していると、街のいたるところでセルフィー棒をつかって写真を撮り、スーツケースを引きずって歩道の真ん中を歩くすべての「観光客の振る舞い=迷惑」とだけ反応するようになります。
しかし、ふたたび自分と風景との距離が意識されると、同化が解けます。同じ風景でも自分がこれまで思っていたものとは異なるものとして感じられるようになります。映像作品『Seeing Differently』では、観光地ではありきたりな風景を取り上げて、それぞれの人物の心の声を聞くことで同化を解いて、分断の理由やお互いの盲点を浮き彫りにしています。
「僕はもともと、ランドスケープデザインを学んでいました。造園をベースにした屋外空間の「風景をデザイン」するという領域の学問です。しかし、いくらデザイナーが空間をつくりこんでも、風景とは見つめる人の意識や感情、つまり私たちの“まなざし”によって悲しいものにも、穏やかなものにも見えてしまいます。風景とは見つめられる客体だけではなく、それを見つめる主体との関係性で生まれますが、その関係性が変わることで、見えている風景が別の状態へと変わります。その関係性が変わる現象を『風景異化/トランスケープ』と名づけ、そのトランスケープを促すようなデザインを『まなざしのデザイン』と呼ぶことにしたのです」
大きすぎる嘘はバレにくい
ハナムラ先生のまなざしのデザインの多くは、現代アートという形で実現されています。デザインとアート、一般的には美しいものや、新しいものをつくる点では似ているように思えますが、アプローチが異なります。アートとデザインの厳密な定義はありませんが、問題解決を志向するデザインに対して、アートは問題提起や「問い」かけの方が大事だとハナムラ先生は考えます。
「『まなざしのデザイン』は、デザインや設計の考え方によって社会の問題に何らかの解決策を提示するプロセスです。一方で、社会で当たり前だと思われていることを、異化することによって気づかせ、全く異なる風景を生み出す風景異化という離れ業をやってのけているのはアーティストです。アーティストとは、社会のマジョリティとは異なるまなざしを持つ者、つまり社会における“他者”です。そんな他者であるアーティストのアプローチで客体と主体の関係性を組み変えることで、当たり前に問いを立てることが大事になります」とハナムラ先生は話します。
プロダクトデザインやグラフィックデザインのように、デザイン的な思考とは何かの機能を達成するためのプロセスだと考えると理解しやすいでしょう。では、アート的な思考とはどのようなことでしょうか?ハナムラ先生は、著書の中で芸術家マルセル・デュシャンの有名な作品『泉』を例に挙げて説明しています。この作品は、何の変哲もない既製品の小便器に『泉』というタイトルをつけて署名を入れて美術展に出品しただけのものです。一般社会では便器を「泉」として捉える見方はしません。しかもこの作品はデュシャンが作ったものでもありません。だからこのアートは従来のように表現の技巧や技術、すなわち“手”によるものではなく、“目”つまりこれを見出したまなざしに新しさがある、ということに観客は気付きます。マルセル・デュシャンのこうした手法「レディメイド(既製品)」は、従来のアートそのものを問う新しい態度として、現代アートの歴史に決定的な転換点をもたらしました。
自然の中に造花を植えた作品『ニテヒナル / the fourth nature』 ©堀川 高志
『ニテヒナル / the fourth nature』という作品から、ハナムラ先生のアート的な問いについて考えてみます。ある山の中で開催された芸術祭に呼ばれたハナムラ先生に課されたお題は、「山を丸ごと違う風景に変えてほしい」というもの。そこでハナムラ先生が行ったのは、自然の山にプラスチック製の植物を次々と植えていくことでした。それも、まるで自然の植物がそこに生えているように、自然によりそって、ナチュラルに。「この作品はリアルな自然空間にフェイクの自然を忍ばせてます。僕たちの現代的な都市文明は、命あるものをモノのように扱うことで成り立っています。その中で暮らしている僕たちは、いつの間にか命に対する感性が鈍っているように思います。人は本来、命があるものにしか共感できないと思うんです。でも命あるものと、命ではないものを、自然の中で見分ける事ができる感性を僕らはまだ持ち合わせているのか?それが僕がこの作品に込めた問いでした」とハナムラ先生は説明します。
この作品のハイライトは、山の中の小さなダムに浮かべられた、プラスチックの蓮の葉でした。それも150枚という膨大な数です。これほどの数になると、気づきそうなものですが、多くの人が気づかなかったといいます。「大きすぎる嘘ほどバレにくい」とハナムラ先生はまなざしの盲点を指摘します。しかし一旦偽物の植物に気づくと、自然の植物すらも人は作品かもしれないと疑い出すので、何が本物で何が偽物かが混同するそうです。結果としてこの作品は、訪れた人の自然に向けるまなざしを変えてしまい、山を丸ごと違う風景に変えてしまったのです。
ダムに浮かぶ150枚ものプラスチックの蓮の葉 ©堀川 高志
「当たり前のものほど自分がどのようなまなざしを向けているのかが盲点になります。それに気をつけていないと、自分のまなざしがいつのまにか第三者に誘導されていても気がつくことができません。特に現代の社会にはまなざしの誘導や操作が非常に多くなっています」とハナムラ先生は警鐘を鳴らします。
「たとえば先の新型コロナウイルスによるパンデミックにおいて、情報社会の利便性と同時に、危険性も明らかになりました。実際には、ウイルスは目に見えず、どこにあるか、誰にも分かりませんが『ウイルスの危険性』について権威のある機関が発言すれば、一瞬でありきたりの日常風景の見え方が変わり、人の行動が変わります。現代の社会はほとんど情報でできています。そんな中では、誰かが提示する正解と不正解に飛びついてお互いが分断されがちですが、異なる見方を並べて、相対化して見るまなざしがますます必要だと思います」
霧とシャボン玉でつないだ、アートが必要な人と、アートが無い場所
ハナムラ先生の作品のうち、社会問題や分断をまっすぐに扱ったものに『霧はれて光きたる春』があります。「社会ではいわゆるアートが見られる場所がありますが、本当にアートが必要な人が、そこにアクセスできないことがあります。自分の身や心が脅かされたり、絶望してしまったり、社会から孤立している不安がある。そんな不安の中にいる孤独な人にこそ、まなざしを変えるアートが必要なんです。そんな人がもっとも多く集まっている病院は、アートが必要な場所の一つかもしれません」
この作品は、大阪市立大学医学研究科(当時)の山口 悦子先生から「アーティストとして病院に関わってほしい」という依頼で始まったのだといいます。800床以上のベッドがある大学病院で人々のコミュニケーションを組み替えるプロジェクトでした。それは病院の中央にある、12階分の巨大な吹き抜けを、霧とシャボン玉で満たすという空間を使ったインスタレーションアートです。
『霧はれて光きたる春』
「この病院にいる800人のまなざしを一瞬で変えることはできないだろうか。そのためにこの全員がアクセスできる吹き抜け空間に奇跡的な現象を演出することをこのプロジェクトでは試みました。インスタレーションが始まると、誰もがみな、吹き抜けに集まってきます。患者だけではなく、看護師、医師、売店の人、清掃の人、普段はキーボードを叩いている医療事務の人たち、みなが“普段”をやめて、空を見上げるんです。院内での立場、社会的な役割、性別、人種、年齢といった違いを乗り越えて、ここに集まった全ての人が、単なる『空を見上げる人』に変わったんです。ここで僕は、本当の奇跡が起きる瞬間を見ました。この作品は霧やシャボン玉ではなく、そうした『空を見上げる人』を見ることによって、お互いが繋がる作品だったと、つくった僕が気づかされました」とハナムラ先生は振り返ります。
『霧はれて光きたる春』は、霧とシャボン玉のインスタレーションによって800人の孤独を変えました。しかしその孤独を本質的に変えたのは、他ならぬ、この病院にいるそれぞれに孤独な人たち自身だったのです。「もし将来、この『霧はれて光きたる春』のような作品が「芸術」と呼ばれるのではなく、「医療」と呼ばれるようになる未来になれば、社会は次の形になるではないかと僕は想像しています」と展望を話すハナムラ先生は、アートの社会的な役割について「想像力の蓋(リミッター)を外す」ことだといいます。
「みな普通に生きていると、どうしたわけか想像力に蓋をしてしまいます。本当はできることでも、『どうせできない、無理だ』、と諦めて今の社会の常識に同期して生きてしまう。そんな我々の想像力の蓋をアートが取り払い『できる』ということを示せば、人や社会は自分から変わっていくと思うんです。多くの人が色んな想像力をもって今の当たり前をもう一度見直せるようになれば、そこには分断のない非常に寛容な社会が実現するでしょう。そしてより長尺なまなざしで、かつての当たり前を呼び起こしたり、次の当たり前をつくれるようになれば、持続的な社会が実現する可能性があるかもしれません」
プロフィール
現代システム科学研究科 准教授
博士(緑地環境科学)、トランスケープアーティスト。大阪府立大学大学院生命環境科学研究科博士後期課程修了。専門である風景異化論をもとに、空間デザインやコミュニケーションデザイン、インスタレーションアートの制作、映像制作やワークショップ、その他さまざまな企画やプロデュースなども行う。「霧はれて光きたる春」で第一回日本空間デザイン大賞・日本経済新聞社賞受賞。著書に、『まなざしのデザイン:“世界の見方”を変える方法』(2017年、NTT出版、日本造園学会賞)、宗教学者との対談『ヒューマンスケールを超えて:わたし・聖地・地球』(2020年、ぷねうま舎)、『まなざしの革命 : 世界の見方は変えられる』(2022年、河出書房新社)など。
※所属は掲載当時